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R・シュタイナー『社会問題の核心』[12]〜国際社会にける自由な精神生活とクレオール化

 [第4章 三分節化から見たこれからの国際関係 − 社会・国家・民族]から 《1》国際社会における自由な精神生活  シュタイナーは、国際関係を考える際にも社会有機体三分節化に基づきながら、国際社会における精神活動の第一義性について次のように語る。 【それぞれの国の精神活動は、互に結びつきを持つようになる。その結びつきは、人類共通の精神生活からのみ生じることができる。精神活動が国家から独立して、自立した在り方をするようになると、法治国家に依存しているときにはまったく不可能だったような状況を形成する。この点では、すでに国際的な在り方をしている科学分野の業績であろうと、他の分野の業績であろうと、変りはない。】(「目標とすべき国際関係」p111)


 今日の国際社会において、個人相互、あるいは、非国家主体相互における関係性の重要性が増大しつつあるとは言え、国家という政治的・権力的な枠組みにおける関係性が今なお支配的である。なおかつ、今日のグローバリゼーションがもたらす熾烈な覇権主義・競争主義の渦中にあって、個人相互、あるいは、非国家主体相互とはいえ、政治的・権力的な枠組みから必ずしも自由な関係性を築き得ているとは言い難く、時には、その個人相互や非国家主体相互の場面において、強固な政治性・権力性を示す国権的な志向が働く。


 こうした中、国際社会における個としての精神活動の自由・自立を確立することの困難は計り知れない。しかし、それ故にこそ、政治的・権力的な枠組みを超えた地球人類としての国際性=世界性を展望するために、人類共通の精神生活に根ざす精神的に自由な自立した個としての存在が求められる。

 さらにシュタイナーは、本論考の執筆当時(第一次世界大戦〜戦後)のヨーロッパ世界を念頭におきつつ、民族集団相互の関係性についても次のように述べている。

【現在、社会有機体の三分節化に対して、民族言語や民族文化を守る方の側から、もっとも鋭い反対がなされているが、こうした反対は、人類全体が現在ますます意識化していかなければならない目標を前にして、挫折せざるをえなくなるであろう。どの民族集団も他の民族集団と結びつくとき、真に人間らしい生き方をするようになる。】(「同上」p112)

 本論考執筆以降の国際社会は、こうしたシュタイナーの希望と警告とは裏腹に独善的・排外的な全体主義が横行することとなり、今日なお、独善的・排外的な自己保身と権力志向の亡霊が国際社会に跋扈している。

 私たちは今こそ、国際社会における自由な精神生活のあり方を憧憬・希求しつつ、自らの生活の足元から自由な自立した個的存在としての確かな歩みを踏み出すべきなのだ。


《2》自由な精神生活に通底・共鳴するクレオール化  グローバリゼーションと相補的に重層化・深刻化する今日の独善的・排外的な世界的風潮の中、自由な精神生活が依拠しうる国際社会のあり方について、世界史的な混淆的文化現象としての“クレオール化された国際関係”を想起したい。  “クレオール化された国際関係”とは、かつて本ブログで私が記した……現代世界を経済・社会・文化の全面おいて破壊的・破滅的に席巻するグローバル化(globalization)のオルタナティブなカウンターカルチャーとして、クレオール化(creolization)やクレオール性(créolité)というものが内包するポストコロニアリズム(post-colonialisme)の「全−世界」的なあり方=[抵抗と慈悲としての関係(『ジャック・クルシル〜抵抗と慈悲として谺するCREOLIZATION(クレオール化)』記載)……に他ならない。 「クレオール化(creolization)」については、エドゥアール・グリッサン〔註〕による『全−世界論(TRAITÉ DU TOUT-MONDE)』(2000/みすず書房刊)が多大な刺激と啓発をもたらしてくれる。例えば次のような指摘は、まさに今日的に現前している課題である。

【今日、どれだけの追いつめられた共同体が、本質的な分裂、自己同一性のアナーキー、国家と教条の戦争か、もしくは、武力による帝国的平和、あるいは、あらゆる事象に全体主義的かつ保護主義的な強大な〈帝国〉を措定するポッカリロをあけた中立性かの二者択一をせまられていることか。(中略)アイデンティティーを唯一の根に求める考え方が、こうした共同体を他の共同体に隸属せしめ、また、彼らの解放の闘いを根拠づけている。しかし、周囲を枯死させる唯一の根に対し、我々は視野を広げて、〈関係性〉を開くリゾーム状の根を勇気をもつて提案すべきではないか? それは根が引き抜かれてしまったわけではない、ただ周囲を纂奪しないだけだ。】(「世界の叫び」p16-p17)

[註]エドゥアール・グリッサン(1928-2011、マルティニーク出身)は、「詩学」という断章的テキストに基づいて,支配者の論理としての歴史観・世界観に抗いつつ、植民地として収奪されてきたアンティル諸島における「クレオール」の視点から、独自の思索・表現・行動を展開した。

 また、“クレオール化された国際関係”を想起するならば、現代における国民国家=Nation-stateとしてのアイデンティティーのあり方についてもオルタナティブな視点が相即的に提起されよう。先に本ブログで記した……ヤポネシア=列島日本における島尾敏雄の「もう一つの日本」、さらには、赤坂憲雄(民俗学者、1953-)の「いくつもの日本」への眼差し(『「ヤポネシア」再考〜群島-日本のCRÉOLITÉへの眼差し』記載)……への私の注視にも繋がるのだ。  赤坂憲雄は『東西/南北考』(2000/岩波新書)において……【転換の方位だけははっきりしている。歴史への眼差しを深みにあって支える座標軸それ自体を、東\西から南\北へと変換させてゆくことである。東西の軸に沿って展開する眼差しと、南北の軸に沿って伸び広がる眼差しとのあいだには、見えにくい、しかし、あきらかに根源的な落差が横たわっている。(中略)この落差については、より端的に、同族的/異族的と称してもいい。東西の軸は同族的アイデンティティの再認に繫がり、南北の軸は異族的なカオスの状況へとかぎりなく開かれている。】(「はじめに」pⅱ)……と記している。  私自身としても、近年の南西諸島への旅(とりわけ、ノロやユタの存在)、あるいは、最近の出羽三山への旅(とりわけ、マタギや山伏の存在)を通して、赤坂憲雄の言う「東西の軸」と「南北の軸」と共に、平地と山岳という「第三の軸」も交錯する形での落差(差異)を感受しており、私たちの列島日本における“クレオール化”への眼差しが通底・共鳴してくるのだ。

〜続く〜


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