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R・シュタイナー『社会問題の核心』[14]〜マルクス主義と近代教育制度における唯物主義

[社会有機体三分節化をめぐって]から

 ◉ マルクス主義と三分節化/自由な学校と三分節化

《2》マルクス主義における「観念としての唯物主義」

 言うまでもなくカール・マルクスの思想体系は、思想的・政治的に世界に大きなインバクトを与えてきたし、今でもその影響力は続いている。もっとも、マルクスその人の思想そのもの(=マルクス思想)がマルクス主義や近代的な唯物主義と全く同一のものと捉えることは思想的・歴史的にも誤りであろう。

 しかし……膨大な思想体系を為すマルクス思想の全貌を理解することは困難であるにしても……その思想の内に、いわゆるマルクス主義や近代唯物主義が有する物質文明イデオロギーとしての精神的特質が底流として存している。

 例えば……【宗教、家族、国家、法律、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なあり方にすぎず、生産の一般的法則に服する。だから私有財産の積極的な止揚は、人間的生活の獲得として、あらゆる疎外の積極的止揚であり、したがって人間が宗教、家族、国家等々からその人間的な、すなわち社会的な現存へと還帰することである。】(マルクス『経済学・哲学草稿(1844)』(1964/岩波文庫、「第三草稿 私有財産と共産主義」p132)……とする考え方。

 こうした論稿において、近代資本主義における私有財産が内包する根本的矛盾について、その経済的特質と共にその社会的・人間的意味を探求するマルクスの思想的営為には感嘆するばかりだ。

 しかし、宗教・道徳・芸術等々までもいっしょくたに「生産の特殊なあり方」「生産の一般的法則に服する」と語り、全ての人間生活(文明)が「私有財産の積極的な止揚」により人間的・社会的な現存へと還帰し得るような主張は、物資的生産を第一原理として人としての精神性を物的世界へと還元・解消してしまう「観念としての唯物主義」に陥るものだ。

 シュタイナーが……【マルクスとエンゲルスの観点は経済生活を新しく形成しようという要求に関しては正しかったが、一面的に正しかったのである。物品を管理し、生産過程を指導するだけの経済生活は、それだけを単独に求められるならば、決して実現されえない。にも拘らず、それを求める人は、これまでの経済生活に不可欠だった精神生活を放り投げておいて、しかも経済生活の活動を続けようとしているのである。】(『本著』「マルクス主義と三分節化」p146)……と語る所以であろう。

 私はシュタイナーと共に、マルクス思想の内に近代資本主義における私有財産の問題を明らかにすると言う積極的意義を見いだしつつも、「生産」という物的世界(=物質的基盤)に人間性・社会性の法則性を倒錯的に見出すことについて、近代唯物主義における物質文明イデオロギーとしての特質を見て取る。

【自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。……(中略)……それゆえ、社会は、人間と自然との完成された本質統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である。】(マルクス『前掲書』「同上」p133)とのマルクスの直観的な把握には、社会の本質を人間と自然の完成された統一(自然主義=人間主義)として有機的に捉えることで、近代唯物主義の幻惑のもとで「物的世界に閉じられた人間性」を克服する一筋の可能性はあり得たと思う。

 とは言え、その「自然主義=人間主義」の内実が、人間を生産の主体者とする人間至上主義、そして、自然を生産の客体物とする生産至上主義である限り、その思想は近代資本主義に絡めとられたままの「観念としての唯物主義」に留まり、物質文明イデオロギー的特質を克服することはできないだろう。

《3》近代教育制度における「教化としての唯物主義」

近代的な「国民国家」(=Nation-State)の確立に伴って成立してきた近代教育制度の大きな特徴は、何より「国民」としての人間形成を任務としたことにある。

 従って、その教育内容としては……様々な人間観や教育観の発展と共に、「国民」形成という枠組みを超えるような人類的且つ個的な人としての成長(=全人的成長)を促す取り組みが試みられるにしても……「人材育成」としての「国民」形成を目的とすることが当然のごとく世間一般に流布されてきた。

 現代日本の学校教育制度においても……【人びとは「一般的な人間性の育成」について語るけれども、現代人は無意識の中で、あまりにも強く自分を国家秩序に依存させているので、自分たちの言う人間性の育成が、実は国家の必要とする人間の育成なのだ、ということに、まったく気づいていない。】(『本著』「自由な学校と三分節化」p149)……とシュタイナーが指摘する通りの事態なのだ。

 「人材育成」としての教育制度は、既存の経済・社会システム(実体は生産重視・利得優先の市場経済)という物的世界に適応・順応させていくという唯物主義的な物質文明イデオロギーであり、その教育観の根底にあるのは「教化としての唯物主義」とも言えよう。

こうした「教化としての唯物主義」教育観のもとでは……【「全人」を受け入れるに足る世界観から生じた魂の力の発達の中から、経済生活においても正しく協力し合えるような生産的な力を生じさせることができる。外的な社会生活に役立つ人間は、高次の世界観への健全な衝動を育てる教育施設からのみ生じる。】(『本著』「自由な学校と三分節化」p155)……として、シュタイナーが語るような「高次の世界観への健全な衝動」は育つどころか阻害されるばかりだ。

日本の学校教育(教育行政)のあり方を事実上定めることになる2016年(平成28年)の中央教育審議会答申『幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について』は、その「はじめに」おいて「学校教育の中核となる教育課程 について、よりよい学校教育を通じてよりよい社会を創るという目標を学校と社会とが共有し、それぞれの学校において、必要な教育内容をどのように学び、どのような資質・能力を身に付けられるようにするのかを明確にしながら、社会との連携・協働によりその実現を図っていくという「社会に開かれた教育課程」を目指すべき理念として位置付けることとしている。」と記している。

 この文言を丁寧に読む込むと、ここで言われている「資質・能力」とは、まさにシュタイナーが指摘する「自分たちの言う人間性の育成が、実は国家の必要とする人間の育成なのだ」に重なるものであり、その根本的な教育観は「教化としての唯物主義」に他ならないことが了解される。

 そもそも、「社会に開かれた教育課程」の名のもとで、具体的な教育内容としての教育課程さえも教育行政(国家)として定めること自体が、最も精神活動の自由が保障されるべき「自由な学校」のあり方と相反するのだ。

【「子どもに何を教えたらいいのか、何が現代社会のために役立つのか」と問うべきではない。「何がこの子の素質なのかこの子の何を発達させることができるのか」と問うべきである。】(『本著』「自由な学校と三分節化」p150)……とのシュタイナーの言葉は今日なお一層切実に響いてくる。

〜続く〜

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