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ベートーヴェン「ディアベッリ変奏曲」[2]〜心魂のドラマとして共振する独白的ピアニズム


 ベートーヴェンの心魂と共振するピアニスト自身の独白的ドラマとして「ディアベッリ変奏曲」を聴く私にとって、そのピアニズムにおいて、個的で多様な精神的即興性により私の音楽的感受を深く揺さぶる演奏は……マリア・ユージナ(Maria Yudina、1899-1970、旧ロシア・ヴィテプスク出身)による1961年の演奏(PHILIPS)、スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter、1915-1997、旧ロシア・ウクライナ出身)による1986年のアムステルダムにおけるコンサートでのライブ演奏(ユニバーサルミュージック)、アナトール・ウゴルスキ(Anatol Ugorski、1942- 、旧ソ連・ルブツォフスク出身)による1991年の演奏(Grammophon)、ヴァレリー・アファナシエフ(Valery Afanassiev、1947- 、旧ソ連・モスクワ出身)による1998年の演奏(DENON)……の4人のピアニストによるものである。[註1]

[註1]“ロシア・ピアニズム”というような括り方は、かなり曖昧で大雑把であまり意味をなさないかもしれない。現にこの4人のピアニズムは、それぞれ異質な音律や曲想を奏でる。とは言え、私の感受を揺さぶる「ディアベッリ変奏曲」を弾くピアニストが、いずれも、ロシア的な風土や文化を背景として現れたピアニスト(アファナシエフとウゴルスキは西欧世界への亡命者となった)であることは偶然ではないだろう。

*マリア・ユージナ*

マリア・ユージナによる1961年の演奏には……録音状態が悪いためか、音の響きがやや不自然に硬く聴こえてしまうのだが(ユージナの弾くピアノは、もともと“硬質”に響くと言われるにしても)……私が聴いた「ディアベッリ変奏曲」の演奏の中でも、とりわけセンチメンタルな虚飾を削ぎ落とすようにして、全体的にテンポを速くとりつつ「ディアベッリ変奏曲」の骨格を洗い出すような厳しさがある。

 〈Poco moderato〉による第18変奏は、多くのピアニストが穏やかに演奏し、私には楽曲半ばでの「束の間の休息」を想起させる所なのだが、この演奏では、より早めのテンポにより第16・17変奏からの焦燥的緊張を持続させる。終盤の短調による第29変奏〜第31変奏においても、その哀切さは精神的に弛緩することなく奏でられ、第32変奏のフーガに至るまで厳しい精神性を保持する。楽曲最終の第33変奏のメヌエットに至って、ようやくにして、「内省的な蘇り」を得たかのごとく穏やかな響きとともに終曲していく。

 このユージナの演奏は、端正で技法的に優れた演奏とは言い難いだろうが、旧ソ連・スターリン体制下での抑圧された生活の中、一人のピアニストとして決死に生きるマリア・ユージナという個的存在による独白的ピアニズムの厳しさと激しさに、今風の鑑賞と消費によるBGM的な曲想とは異質な演奏に畏怖感を抱くとともに、人(人生)と音楽(芸術)の根源的なあり方を改めて思う。[註2]

[註2]マリア・ユージナの弾くバッハの「ゴルトベルク変奏曲 - 1968年録音」(PHILIPS)も、センチメンタルな虚飾とは無縁である。バッハ作品のうちで“世俗的鍵盤楽曲”と評される中、流麗な響きを奏でることの多い今日的な演奏とはかなり異質な演奏で、厳粛な“宗教的鍵盤楽曲”のようにも聴こえる。このユージナの演奏を聴くと、今風の洗練された優美さを際立たせる「ゴルトベルク変奏曲」演奏は、音響世界を浮遊するような美意識のもと、現代的な感覚主義としての“脆弱性”を併せ持つことを思い知る。

*スヴャトスラフ・リヒテル*

 スヴャトスラフ・リヒテルによる1986年のアムステルダムにおけるコンサートでのライブ演奏は、私にとって「ディアベッリ変奏曲」開眼の演奏であり、第1変奏の冒頭からして、その厚みのある和音進行と共にリヒテル独自の世界に惹き込まれ、その勢いのままに「楽曲半ばの精神的ピーク」から「終盤での精神的ピーク」へと至り、リヒテル自身の精神世界がベートーヴェンの心魂のドラマと共振する独白的ピアニズムを聴くことになる。

 圧倒的な精神力で弾ききる各変奏も見事なのだが、私にとってこの演奏の特筆すべき魅力は、その各変奏のつなぎとなる“間”が余白として感受させる沈黙の余韻にある。各変奏ごとのドラマチックな転換が異化的作用として働き、そのつなぎとなる“間”が深い音楽的余韻となり、楽曲全体として独白的な精神のドラマが色彩豊かに融合的に響くのだ。

 このリヒテルの演奏において、各変奏のつなぎとなる“間”が深い音楽的余韻を感受させるのは、おそらく、コンサートでのライブ演奏として、楽曲全体を通しで弾いているであるからであろう。70歳を過ぎてなお、このように「ディアベッリ変奏曲」をライブ演奏するという、その持続する精神力(+体力)に、リヒテルのピアニストとして鬼気迫る心魂のドラマを聴き取る。

 *アナトール・ウゴルスキ*

 アナトール・ウゴルスキによる1991年の演奏は、相当程度にウゴルスキとしての“創作的”な楽譜解釈や個性的なピアニズムを感受させるもので、クラッシック音楽界ではエキセントリックな演奏として論議を呼んだようだ。しかし、“楽譜”とは文字と同様、それ自体としては抽象的な記号体系であり、本質的にその解釈のあり方は、多種多用であることを余儀なく且つ許容されものであり、必然的に時代や社会、演奏者や聴取者の相違によって変容していくものだ。

 “楽譜”と違うことのない楽曲演奏を最上とすることは、個人の好みとしてはあり得ても、それを絶対視・一般化する根拠はどこにもない。多くの民俗的・土着的な楽曲や一部の現代音楽、あるいは、ジャズ演奏におけるアドリブなどは、そもそも書き示された“楽譜”に基づく演奏という概念を持たない。

 感情表現としての音楽演奏(=芸術)を文献学的・考古学的な枠に押しとどめ、書き示された“楽譜”に依拠する演奏スタイルを絶対視・一般化したうえで、演奏内容そのものを率直に感受することなしに“楽譜”からの逸脱として論難することは、まさに、「覇権的・一元的な感受性」を強いることであり、音楽界での植民地主義のようなものだ。

 私は、このウゴルスキによる「ディアベッリ変奏曲」の演奏を何度か聴く内に、他のピアニストによる演奏では感受することのない不思議な情動とともに、その魔的な魅力から離れ難くなった。ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」は、元来、そうした魔性を有する秘蹟としての楽曲なのかもしれない。

 このウゴルスキの演奏では、とりわけ、第16変奏から第20変奏へと至る楽曲半ばにおけるコントラストの強い響きが圧巻である。正確無比の鋭い打鍵により、〈Allegro〉の第16変奏から速度記号のない17変奏までの疾走していく切迫性。一転、かなりゆったりと穏やかな〈Poco moderato〉の第18変奏から、〈Presto〉の第19変奏への異化的な転換。そして、楽曲半でのピークとして、不協和に響く〈Andante〉の第20変奏における不吉な不安感。「ディアベッリ変奏曲」に秘められたベートーヴェンの心魂のドラマが、ウゴルスキという一人のピアニストによる独白的ドラマへと憑依したかのような呪術的演奏である。

*ヴァレリー・アファナシエフ*

 ヴァレリー・アファナシエフによる1998年の演奏では、アファナシエフ特有のたおやかなタッチにより、色彩豊かに響く和声に乗って芯のあるメロディラインが奏でられている。先のユージナ、リヒテル、ウゴルスキによる演奏と同様、このアファナシエフの演奏も個性的で独自の「ディアベッリ変奏曲」を奏でるが、ライブ演奏を含めてアファナシエフを聴き馴染んでいる私にとっては、個々の変奏が自ずと融合されつつ楽曲全体としての感受をもたらしてくれる。

 このアファナシエフよる「ディアベッリ変奏曲」では、とりわけ、短調による第29変奏〜第31変奏から第32変奏のフーガを経て第33変奏のメヌエットへと終曲していく終盤に聴き惚れてしまう。ゆったりとしなやかに弾かれる第29変奏と第30変奏は、そのメロディーの単純性のままに唯一無二の純粋な哀切へと私を惹き込み、その悲嘆は第31変奏の天使的・菩薩的なトリルの響きによって慈悲へと昇華していく。

 優しく力強く奏でられる第32変奏のフーガでは、苦難と深淵からの歓喜が心静かに蘇り、軽やかな舞踏のごとく弾かれる第33変奏のメヌエットでは、その転生と新生を再認し祝福する。このアファナシエフが弾く第29変奏から第33変奏へと至る終盤では、ベートーヴェンの魂的精神性にシューベルトの美的感受性が重なり、ここを聴くために「ディアベッリ変奏曲」があるかのように私の心魂に立ち現れる。

〜続く〜

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