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ベートーヴェン「ディアベッリ変奏曲」[1]〜独白的ドラマに秘められた魔性と魅力


 私は、ベートーヴェンではピアノソナタと弦楽四重奏曲だけを偏って聴いており、特にシンフォニーは、大げさな身振りの決まりきった響きに聴こえてしまい、私自身の自由な音楽的感受を抑圧されるようでどうにも馴染めないでいる。ビアノ曲でもピアノソナタとは異なる曲想の「ディアベッリ変奏曲、Op.120」は、そのレトリック的な響きだけが耳に纏わり付いて、私の音楽的感受性とは相性が合わないと感じてきた。ところが最近、「ディアベッリ変奏曲」にすっかり嵌まってしまい、いろいろなピアニストによる演奏録音を聴いている。[註1]

[註1]参考として、これまで私が聴いた「ディアベッリ変奏曲、Op.120」の演奏録音について、そのピアニスト名と録音年を下記にあげておく(録音年順)。

「Artur Schnabel -1937」「Wilhelm Backhaus -1954」「Maria Yudina -1961」「Alfred Brendel -1976」「Sviatoslav Richter -1986」「Anatol Ugorski -1991」「Maurizio Pollini -1998」「Valery Afanassiev -1998」「Piotr Anderszewski -2000」「Ichiro Nodaira -2003」「Vladimir Ashkenazy -2006」「Paul Lewis -2009」「Alexander Romanovsky -2010」「András Schiff -2012」

 「ディアベッリ変奏曲」に深入りするきっかけは、アンドラーシュ・シフ(Andras Schiff、1953- 、ハンガリー出身)がベヒシュタイン・ピアノ(1921年製)とフォルテ・ピアノ(1820製)で弾いた録音CD(2102年録音、ユニバーサルミュージック)を聴いたことによる。このCDでのアンドラーシュ・シフが弾く「ディアベッリ変奏曲」は、さほど私の音楽的感受性を揺さぶることはなかったが、独特の音色を響かせるピリオド楽器による演奏は興味深く聴いた。[註2]

[註2]このアンドラーシュ・シフの演奏のように、ピリオド楽器により作曲当時の響きを再現しようとする試みは貴重であり、私にとっても興味深い。もっとも、私はピリオド楽器による演奏に特別な優位性があると思っているわけではなく、モダン楽器による演奏を相対化する意味として、あるいは、他の様々な演奏と同様の“一つの可能性”として考えている。

 「ディアベッリ変奏曲」は、よく言われるように性格的変奏……主題における拍子・速度と異なる変奏を次々と展開し、主題の曲想(性格)そのものを変容させていくロマン派的な変奏様式……として複雑な展開をみせる“難曲”であり、楽曲そのものが底の浅い退屈なレトリック的演奏となりがちである。どうやら今までの私は、そうした退屈なレトリック的「ディアベッリ変奏曲」を聴いてきたようで、最近、演奏するピアニストの個的な音楽的感受のあり方によって、楽曲としての統一的・全体的な曲想が様々に変容することに気づいたのだ。

 さらに、いろいろなピアニストによる演奏録音を聴いて感受したのだが、その作曲の由来や動機がどうであれ、ベートーヴェンは「ディアベッリ変奏曲」を人に聴かせるために作曲したのではなく、自らの内面にうごめく心魂のドラマを止むに止まれず独白的に作曲したように思えてきた。そのため、「ディアベッリ変奏曲」の曲想は、よりいっそう演奏するピアニストの個的な音楽的感受のあり方が問われるともに、その演奏を聴く者の個的な音楽的感受のあり方も問われるようだ。

 私にとって「ディアベッリ変奏曲」の魅力は、まさに自由な性格的変奏として、演奏する者と聴く者による多面的・個的な“変奏”を許し且つ求める共に、その自由な精神による独白的ドラマが憑依する独自性としてあり、楽曲への予定調和による同化的なピアニズムよりも、楽曲への予測不能な異化的なピアニズムが似つかわしい精神的な即興性としてある。「ディアベッリ変奏曲」には、ベートーヴェン自身は意識しなかっただろうが、“記譜主義”の伝統的クラッシック音楽を自己超克する魔的な魅力が秘められている。

 演奏する者や聴く者の音楽的感受のあり方は、作曲者自身も含めて人それぞれであって当然なのだが、私の音楽的趣向からすると、「ディアベッリ変奏曲」の“レトリック的誘惑”や“技巧的誘惑”に惹かれるままに演奏技法の完璧さを追求・誇示するかのようなピアニズムは、無意味に打鍵される音の羅列として聴こえるだけだ。そうした「ディアベッリ変奏曲」演奏では、伝統的な西洋クラシック音楽が内包する負の遺産である「覇権的・一元的な感受性」を強いられて、世間的な評価にも散見されるように、ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」そのものが底の浅いシニカルな楽曲となる。

 私が「ディアベッリ変奏曲」に惹かれるのは、ベートーヴェンの記譜通りに忠実且つ完璧なピアニズムを聴くことにあるのではなく、この楽曲の内に秘められたベートーヴェンの心魂と響き合い憑依するようにして、ピアニスト自身における心魂の独白的ドラマが演奏される自由で多面的・個的な精神の響き……とりわけ、“2つの精神的ピーク”として表出される独白的な心魂のドラマ……を聴くからである。

 その一つは、第16変奏から第19変奏へと焦燥的緊張を歩み登り詰めながら……第16・17変奏における「焦燥の嵐」から第18変奏での「束の間の休息」へ、そして、〈Presto〉による第19変奏での「生きる意志」を奏でつつ……不協和的に響く〈Andante〉による第20変奏での「内省的な不安」へと沈潜していく、楽曲半ばにおける“心魂の慄き”としての独白的ドラマである。[註3]

 もう一つは、短調による第29変奏〜第31変奏へと堪え難い程の哀切と共に慈愛を深めながら、第32変奏のフーガにおける転生したかのような「新たな勇気」へと至り、その「新生を言祝ぐ」ように奏でられる第33変奏のメヌエットで終曲していく、終盤における“霊性の目醒め”としての独白的ドラマである。[註4]

[註3]この第20変奏に関して、現代日本の作曲家・ピアニストの野平一郎(1953- )が、自らが演奏した「ディアベッリ変奏曲」(2003年録音、ナミ・レコード)の解説において、次のように述べていることを最近知った。私が感受していることについて、音楽家の立場から補足してくれているようなので紹介しておく。

「一部の(和音の)連結はワーグナーを遠く超え、19世紀後半ないし20世紀初頭のスタイルといっても過言ではない。さらに何ともミステリアスな雰囲気がそれを助長している。(中略)全体で33という変奏の数からすると、この第20変奏は折り返し点でも何でもないが、しかし曲の後半は二つの緩徐楽章や長大なフーガ、そして美しいコーダを持つ最後の変奏など時間をより要するものが多く、演奏時間からすると、これが転換点といっても良いだろう。真夜中の音楽。それがまるで曲の真ん中のサインでもあるような。」  なお、この野平一郎による「ディアベッリ変奏曲」は、現代的な対位法に習熟している作曲家による演奏らしく、各旋律が和声に埋没することなく、輪郭のはっきりとした透明感のある響きが聴ける。抑圧感のない開放的な演奏で、私が惹かれる「ディアベッリ変奏曲」演奏の一つである。

[註4]「ディアベッリ変奏曲」のいくつかの変奏について、私なりにこうした「標題」を付けたのだが、その後、アルフレッド・ブレンデルが「ディアベッリ変奏曲」のすべての変奏について「標題」を付けていることを知った。高名なピアニストによる「標題」と並べて見ることで、私自身(あるいはブレンデル)の「ディアベッリ変奏曲」に対する思い込みが相対化できるので次に紹介しておく。

 第16・17変奏「 勝利」/第18変奏「ややおぼろげな、大事な想い出」/第19変奏「周章狼狽」/第20変奏「内なる聖所」/第29変奏「抑えたため息(コンラート・ヴォルフ)」/第30変奏「優しい嘆き」/第31変奏「バッハ的な(ショパン的な)」/第32変奏「ヘンデル的な」/第33変奏「モーツァルト的な。ベートーヴェン的な」〜『音楽のなかの言葉』(ブレンデル著/木村博江訳/1992/音楽之友社)所収、「クラシック音楽は、つねにシリアスであるべきか 2 」p74-p75より抜粋

 なお、このブレンデルによる「ディアベッリ変奏曲」(1976年録音、Philips)は、私が聴き知っているいつものブレンデルの演奏よりも、全体として情動的なニュアンスを響かせている。この演奏がライブ録音であることも大きく影響していると思われるが、演奏巧みなブレンデルなりに、「ディアベッリ変奏曲」の独白的ドラマ性を意識したうえで、そのピアニズムに工夫・変化を加えているようだ。ブレンデルらしい均衡と抑制を保ちつつ、情動的なニュアンスを合わせ持つ演奏は、率直で典型としての「ディアベッリ変奏曲」を教えてくれる。

〜続く〜

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