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R・シュタイナー『社会問題の核心』[3]〜イデオロギー的社会論から倫理的個体主義に基づく三分節化へ


[まえがきと序論]から-3

《5》「社会有機体三分節化」をどう読み解くか

 シュタイナーは、[本論]に先立って[まえがきと序論]をまとめる形で、その社会論の核となる「社会有機体三分節化」について次のように述べる。

【精神生活においては、各人が自分の特別の能力に従って自由に活動する。経済生活においては、連携組織的関連の中で、それぞれが自分の場所を占​める。政治的=法的国家生活においては、各人が純人間的な権利を持つ。この権利は自由な精神生活の中で働く能力から独立しており、各人の生産する財が連携的経済生活の中でどんな価値をもっているかということからも独立している。(中略)社会有機体の統一は、この三分野がそれぞれ独立して発展できたときに生じる。本書は運用される資本や生産手段や土地利用がこの三分野の共同作業によって、どのように形成されるかを示すであろう。】(「国の役割」p-xxvi-xxvii)

 このような……〈能力を生かす自由な活動としての精神生活〉〈連携組織における共同的営為としての経済生活〉〈人間的な権利・義務としての政治的=法的国家生活〉……という三要素に分節化された有機的な社会生活のあり方として構想される「社会有機体三分節化」について、今の自分自身の生活との関わり中でどのようにイメージし深く理解できるかが、シュタイナーの社会論を考える上で大きなポイントを占めることになろう。

しかし、近代における資本主義(市場経済)の勃興以降の市民社会・国民国家制度の発展のもと、自由主義や個人主義、あるいは、かつての社会主義(統制経済)のイデオロギーに慣れ親しんでいる私たちにとって、シュタイナーの語る「社会有機体三分節化」は、やはりなかなか理解し難い考え方である。本著[本論]ではやや詳しく触れているとは言え、体系的・論理的に「社会有機体三分節化」に述べているシュタイナー自身の“テキスト”も私の手元には見当たらない。

もともとシュタイナーの論述の進め方そのものが 、講義・講演はもとより、著述として書かれた“テキスト”にしても、原初の発想やイメージをより重視するものであり、聴き読む人々にも、そうした彼自身の発想・イメージに寄り添うことを求めている(シュタイナーは、自らの講義・講演の記録を筆記することなく、直接的に彼の言葉を通して理解するよう望んでいた)。

 この「社会有機体三分節化」について、あるいは、彼の構想する社会論全体についても、通常の社会論を読むときのような学術的な体系性・論理性を求めることより、シュタイナーの原初の発想やイメージに寄り添うことを重視すべきなのだろう。そのことで、シュタイナーの遺した「社会論」が、単なる文献的・学術的な考察の対象としてではなく、私にとっての『社会問題の核心』という実践的視点から、真に実人生を生きるための社会構想としての意味を持つのだから。

《6》イデオロギー的社会論批判としての「社会有機体三分節化」

 私なりの“読み解き”からは、シュタイナーの「社会有機体三分節化」という構想の背景として……彼が生きたドイツにおけるナチス台頭の直前にしてロシア革命直後の当時、未曾有の世界的混乱と人類的危機が露となり、近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギーの未来のない無力さ……を想起する。

 シュタイナーは、その近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギーの無力さとして、その社会論を支えていた幻影としての近代的な人間主義・自由主義・平等主義等々の実体の伴わない観念的概念の崩壊を鋭く見抜き、そうしたイデオロギー的社会論への批判として「社会有機体三分節化」を唱えたのだ。[註]

[註]こうした〈幻影としての近代的な人間主義・自由主義・平等主義等々の実体の伴わない観念的概念〉に関連して、瀧澤克巳(1909-1984/哲学者・キリスト教神学者)が、その独自のキリスト教神学の立場から『瀧澤克巳著作集-第5巻 現代哲学の課題』(1973/法蔵館刊)で次のように記していることは興味深い。

【近代的な「人間主義」(humanism) •「自由主義(liberalism) •「個人主義」 (individualism)に内在する弱点は、とうていこれを、たんに歴史的な時の内部の こと、ただ「現代」だけにかかわることとして解明することはできない。(中 略)なぜかというと、近代の「個人主義」というのは、その歴史的な由来、「物質的な土台」がどうあろうとも、結局はやはり、考える存在としての人間が、その生命の全体に関して、懐くところの一つの概念(concept)、いいかえると自己自身の窮極の根抵・目標・原動力に関して、端的に起すところの一つの感覚(sentiment)である。】(「現代の精神状況(1961)」p68-p69)

 当時のヨーロッパ世界を席巻しようとしていた……〈近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギー〉としての〈近代的な人間主義・自由主義・平等主義等々の実体の伴わない観念的概念〉……を考える際、『唯一者とその所有 上(1844)』(片岡訳/1967-68 /現代思潮社刊)において読むことのできるマックス・シュティルナー(1806-1856/プロイセン/哲学者)の次のような記述は、私にとっておおいに示唆に富む。

【政治的自由主義は、主人と下僕の不平等を揚棄した、それは主人なしとし、アナーキーとした。かくて、主人は、個々人から、「エゴイスト」から却けられ、法あるいは国家とよばれる一の幽霊となった。社会的自由主義は、所有の、貧者と富者の不平等を揚棄し、無所有あるいは無財産とした。所有は個人から剝奪され、幽霊的社会に委託される。人道的自由主義は、無神とし、無神論的とする。ゆえに、個々人の神、「私の神」が廃絶されねばならない。かくてまさに、無主人は同時に無奉仕であり、無所有は同時に無配慮であり、無神は同時に無偏見である。けだし、主人と共に下僕も失せ、所有と共に所有に関する配慮も失せ、固く根づいた神と共に偏見も失せるからだ。ところが、主人は国家としてまた復活するので、下僕もまたその臣下としてあらわれ、所有は社会の財産となるので、配慮もまたあらためて労働として生みだされ、さらに、神は人間として偏見化されるため、一の新たな信仰が、人類もしくは自由への信仰が復活する。個々人の神にかわって、今は、万人の神が、つまり「人間」がもちあげられる。】(「古い時代の人・新しい時代の人」p193-p194)

 シュティルナーの論争的な言い回しは、やや分かりづらい内容だが、シュタイナーの半世紀程前にいちはやく……「主権国家・市民社会という政治的自由主義(=ブルジョア民主主義)のもとでの抽象的な国民・市民として法的支配」、「私的所有の社会化・共同化という社会的自由主義(=プロレタリア社会主義)のもとでの所有形態と経済活動を統制支配」、そして、「市民性・人間性という人道主義的自由主義(=人間主義)のもとでの個的存在者の精神生活を抑圧支配」……として、〈近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギー〉=〈近代的な人間主義・自由主義・平等主義等々の実体の伴わない観念的概念〉の現実生活における本質的問題性を指摘しているのだ。

 このようなシュティルナーの指摘も参考としてシュタイナーの「社会有機体三分節化」を読み解くと……社会生活を精神・政治・経済との三要素に分節化し、それぞれが独自の原理により自立的・実体的な生活として営まれつつ、それぞれが有機的に統合されて一体的社会生活を構成することになる……という社会構想は、近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギー的社会論に対する根柢的な批判として展開されていることに気づく。

《7》倫理的個体主義に基づく「社会有機体三分節化」

 シュタイナーの「社会有機体三分節化」は……〈近代的な資本主義や社会主義におけるイデオロギー〉に対する批判的社会構想であるとともに、〈近代的な人間主義・自由主義・平等主義等々の実体の伴わない観念的概念〉に対して、シュタイナーならではの“個的且つ霊的な存在者”としての人間理解に依拠した人間論=社会論……であり、ここに私は、彼の「社会有機体三分節化」の独自性と普遍性を、さらには、その未来への可能性を見出している。このことに関連して、『若きシュタイナーとその時代』(高橋巌訳/1986/平河出版社刊)では、次のようなシュタイナーの注目すべき記述を読むことができる。

【『自由の哲学』の後半部で、私はそれまでの前提を倫理学的に首尾一貫させましたが、この部分は、私の信じますところでは、『唯一者とその所有』の論述と完全に一致しております。また「自由の理念」の章の終わりでは、個体と社会との関係についても、近代自然科学からもシュティルナー哲学からもひとしく受け容れられる事柄を論じたつもりです。私ははっきりとシュティルナ—を参照するようにとは述べませんでした。私の倫理的個体主義が私自身の立場の諸原則から必然的に生じたものだったからです。】(「シュタイナー書簡集(1893)」p217)

 シュティルナーが展開してみせたイデオロギー的社会論への批判について、「倫理的個体主義」という見事な一言で、その存在論的根拠を示唆しているのである。私は、この「倫理的個体主義」の言葉に出会うことで……シュタイナーの言う“倫理的”とは“霊性”のことに他ならないと私は理解する……シュティルナーの言う「自己性=私に固有なるもの」とも照応しつつ[註]、「社会有機体三分節化」という社会構想の内に、“個的且つ霊的な存在者”というシュタイナーならではの人間理解を感受し、それ故、今日においてなお一層、「社会有機体三分節化」が深く鋭い人間論=社会論であり得ると考える。

[註]【自由と自己性との間には、何という相違があることか ! 人はまさに多くのものから免れうるがしかし、すべてのものから免れるわけにはいかない。人は多くのものから自由となるとしても、すべてから自由となるわけにはいかない。(中略)「自由はただ夢の国にのみ住まう」のだ!これに反し、自己性は、これは、私の全存在、全実在であり、それは私自身であるのだ。私は、私が免れてあるところのものから自由であるが、私の力のうちにあり私が力を及ぽしうるところのものの所有人であるのだ。私が自らを所有することをわきまえ、私を他者に投げあたえぬかぎりは、私はいついかなる状況のもとでも、私に固有なるもの〔mein Eigen〕であるのだ。】(前掲書「自己性」 p10)

〜続く〜

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