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ヴァレリイ・アファナシエフ〜アンドラーシュ・シフのピアニズムと共に(2)


 ヴァレリー・アファナシエフのピアニズム

 先述したコンサートでアンドラーシュ・シフのピアニズムの変容として感受したことは……彼自身の個的で固有な問題なのか、コンサートという場での表現の問題なのか、私自身の感受の問題なのか……は定かではないが、10数年前からコンサート演奏を聴き続けているヴァレリイ・アファナシエフの存在を私に想起させる。

 かなり個性的なシューベルトの後期ピアノソナタ3曲「D.958/D.959/D.960」の演奏が注目(批難も含めて)を浴びて、アファナシエフが日本でよく知られ始めたのは2000年前後だったと思う。私もそうした渦中にあった一人で、1997年のスタジオ録音CD『シューベルト: 最後の3つのソナタ』(DENON)を聴き、そして、2005年に浜離宮朝日ホールでのコンサートで「D.959(ピアノソナタ No.20)」を目前(第5列の席だった)で耳にして、その独創的な演奏に音楽的感受性を大きく揺り動かされた。

 私が、そのシューベルトの後期ピアノソナタ3曲のアファナシエフの演奏に強く触発されたのは、例えば、「D.959(ピアノソナタ No.20) 」で言えば……第2楽章で奏でられる冥府巡りのような絶望と悲嘆を秘めつつ、孤独と哀切のうちに再帰し再生していく心魂の響き……を感受し、そうしたシューベルトの途方もない精神性が、アファナシエフの音楽的情動に憑依するようなピアニズムを聴いたからだ。

 このようなシューベルト「後期ピアノソナタ」の演奏で示されているアファナシエフの独自性は、しばしば「のろいとほどのゆっくりとしたテンポ」としても指摘されてきた。そのテンポの遅さだけで彼のピアニズムの特質を語ることにあまり意味はないが、この点に関連させて、アファナシエフ自身が次のように語っている。

 「速いテンポというと、私はどうしても“好きではない”ピアニスト、或いはバロックの音楽家を連想してしまうのです。彼らとは距離を置こうとしていたこともあって、ゆっくり弾くようになったのです。現在では意図的にしている部分もあります。自分の感じるままを忠実に弾くとゆっくりしたテンポになるのです。速く弾くことによって解釈に活気を添える夕イプのアイドル型ピアニストにはなりたくありませんから。感情を最も容易に伝達するのは速いテンポであり、けれどもその場的な薄っぺらな感情の吐露になります。これを私は毛嫌いしています。私は心の奥底にある、本質的で意義深い感情を選択するのです。」[2005年、浜離宮朝日ホールでのコンサート録音CD『シューベルト: 3つのビアノ曲 D.946/ピアノソナタ D.959』(若林工房)の解説より]。

 もちろん、ピアニストの演奏と言葉は別物なので、言葉に依拠して音楽を聴くことは無意味だが、“言葉”による表現活動も重視しているアファナシエフにとって“言葉”の持つ意義は格別である。アファナシエフという存在の表現活動に寄り添おうとするならば、次のような彼自身の言葉も貴重である。

 「私は決して作品を構築しない。自分の演奏解釈をするのではなく、有機的に成長するがままに運んでいくだけだ。モスクワ音楽院でジャコブ・ザークの助手をしていた私の先生は、形式とか構造についてが最重要ではない、煩わされることなく自分自身を表現しなさい、と言った。音楽づくりに際しては考えるけれど、私自身も演奏の最中には、形式や構造のことは決して考えない。音楽が育つに任せ、私を通して表現が生まれるままにする。何かが私の思考に降ってくるのを待つ。だから私は聴衆を楽しませようとも思わないし、ここで早めにクレッシェンドしようとか、そういうことも意図しない。絵画的な要素を持ちこむなら.、作品は破壊されるだけだ。要するに私はただ演奏するだけで、音楽が生きるがままにする、それを操作しようとは決して思わない。」[『音楽の友 2005年6月号』(音楽之友社)のインタビュー記事より]

 こうしたアファナシエフの言葉は、私がこれまでにCD録音やコンサート演奏で聴き続けてきた彼のピアニズムの基底にあるディオニュソス的な情動性と重なる。とは言え、先に紹介した1997年のスタジオ録音CDや2005年の浜離宮朝日ホールでのコンサート録音CDを幾度か聴いていると、「のろいとほどゆっくり」と指摘されるテンポにしても……先の彼自身の言葉「意図的にしている部分もあります」からも窺い知れるように……楽曲としての一定の構築性を保つため、アファナシエフなりのアポロン的な知性や意図と相反している訳でもないと感じる。

 このようにして……ディオニュソス的な情動性とアポロン的な構築性の微妙なバランス……のなかで生成するアファナシエフのピアニズムなのだが、10〜15年にわたる演奏を聴き続けている中で、私はここ数年、その情動性と構築性のバランスが揺らぎ始め変容していることを感受する。

 例えば、ベートーヴェン「後期ソナタ op.109/op.110/op.111」で言えば、2003年コンサート録音(サントリーホール、若林工房)の演奏(このコンサートは聴いていない)と2014年コンサート録音(紀尾井ホール、若林工房)の演奏(このコンサートは聴いている)では……コンサート会場・演奏ピアノ(使用ピアノは不明)・録音方法の違いも影響してるのであろうが……打鍵やベダル操作等の技法的相違も感じられるし、ベートーヴェンという存在へのアプローチの仕方自体も含めて、アファナシエフのピアニズムに変容を聴き取る。

 2003年のサントリーホールでの演奏に比べて2014年の紀尾井ホールでの演奏では、総じてピアノがより重層的に強く響きわたり、旋律が物語る叙事性よりも和声が喚起する叙情性が増すことで、ベートーヴェンの心魂がアファナシエフの皮膚感覚のようにして纏わりつくのだ。それ故、2014年コンサート演奏の「op.111(ピアノソナタ No.32)」は、第1楽章(アレグロ)における不安と悲痛が激情として屹立し、それと相対するようにして、第2楽章(アダージョ)における受容と慈悲が浄福として湧出してくる。このアファナシエフによる「op.111(ピアノソナタ No.32)」演奏は、私が耽溺するピアノソナタの代表的な一曲となっている。[註]

[註]同じ2014年、浜離宮朝日ホールではシューベルトの「D.960(ピアノソナタ No.21)」を演奏している。このコンサートは聴いていないが、コンサート録音CD (若林工房)を聴くと、この紀尾井ホールで演奏したベートーヴェンの後期ピアノソナタ「op.109/op.110/op.111」同様のピアニズムを感じる。この「D.960(ピアノソナタ No.21)」演奏も、私が耽溺するピアノソナタの代表的な一曲。

 こうした……アポロン的な構築性よりもディオニュソス的な情動性へと傾斜する揺らぎ……近年のアファナシエフのピアニズムの変容は、以前このプログでも「ヴァレリー・アファナシエフ〜叡智から叙情へ」と題して触れたように、2015年のトッパンホールでの「バッハの平均率クラヴィーア曲集」演奏においても感受したことだ。

 また、昨年(2016年)の川口リリアホールにおけるベートーヴェン「ピアノソナタ op.13/op.27-2/op.57)」演奏では、旋律すらも浸食・破壊しかねない圧倒的な和声の響きを聴いた[註]。センチメンタルなロマンチシズム……ベートーヴェン本人の与り知らぬ「月光」という標題も含めて……として誤解されがちな「op.27-2(ピアノソナタ No.14)」の演奏では、アファナシエフのディオニュソス的なピアニズムにより、この楽曲が本質的に孕む焦燥と悲痛の感情が見事に表現されていた。

[註]以前の「武満徹〜雅楽と舞の秋庭歌一具」と題したプログの[補注]で記したように、アファナシエフの強いタッチで弾くベーゼンドルファーの響きに比して、ホール空間が少々狭かったための残響の問題ということもあるかもしれない……。

〜続く〜

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