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ヴァレリイ・アファナシエフ〜アンドラーシュ・シフのピアニズムと共に(1)

アンドラーシュ・シフのピアニズム

 先日(2017.3.21)、サー・アンドラーシュ・シフのオペラシティでの「最後から2番目のソナタ」と題したコンサートを聴いてきた。プログラムとしては、演奏曲順に(本人の要望で途中休憩なし)……「モーツァルト: ピアノソナタ K.570」「ベートーヴェン: ピアノソナタ op.110」「ハイドン: ピアノソナタ Hob.ⅩⅥ: 51」「シューベルト: ピアノソナタ D.959」……アンコール曲として……「シューベルト: 3つの小品 D.946-2」「バッハ: イタリア協奏曲 第1・2・3楽章」「ベートーヴェン: 6つのバガテル op.126-4」「モーツァルト: ピアノソナタ K.545 第1楽章」「シューベルト: 楽興の時 第3番」。[註]

[註]プログラムと一体化した感のある「シューベルト: 3つの小品 D.946-2」は別として、このアンコール曲の多さは、残念ながら本編プログラム曲への私の感受を薄めてしまった。アンコールの演奏内容が良くなかったとは思わないし、大いに盛り上がった聴衆に対するアンドラーシュ・シフの共感や感謝の表れとして、快く受け入れたいとは思うのだが……。

 アンドラーシュ・シフ(Andras Schiff、1953- 、ハンガリー出身)の演奏は、1977年録音の「J.S.バッハ: インベンションとシンフォニア』(DENON)という若い頃の録音から始まって、D.スカルラッティ、J.S.バッハ、シューベルト、シューマンらの演奏を何枚かのCDで聴いてきた。その均整のとれたピアノの響きが醸し出す端正且つ繊細な演奏に感心はしたものの、私にはシフ自身の個的な情動性や存在感のようなものが感じられず、アルフレッド・ブレンデル(1931- 、チョコ出身)の演奏に抱く印象にも似て、好感が持てるにしても今ひとつ物足りなさを感じていた。

 それ故、同時代のピアニストとしてシフの演奏を聴きつつも、いつも他のピアニストが私の偏愛するピアノ曲の“聴取権”を得ていた。例えば……D.スカルラッティ「ソナタ」はスコット・ロス(1951-1989、アメリカ出身)のチェンバロ/J.S.バッハ「平均率クラヴィーア曲集」はグレン・グールド(1932-1982、カナダ出身)とフリードリヒ・グルダ(1930-2000、オーストリア出身)とキース・ジャレット(1945- 、アメリカ出身)/ベートーヴェン「後期ソナタ op.109/op.110/op.111」とシューベルト「後期ソナタ D.958/D.959/D.960」はスヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997、ロシア出身)とヴァレリー・アファナシエフ(1947- 、旧ソ連出身)/シューマン「交響的練習曲」はマウリツィオ・ポリーニ(1942- 、イタリア出身)とミハイル・プレトニョフ(1957- 、旧ソ連出身)……といった演奏の方が私の好みに合っていた。[註]

[註]それぞれの演奏内容について、音楽の専門家でもなく音楽批評を生業としていない私に、その“比較”や“優劣”を論じる能力も必要もない。あくまでも、これは私の個人的な好み(趣味)でしかない。その好みの理由はまたの機会に触れようと思うが、あえて端的に言うならば……D.スカルラッティ「ソナタ」では、ロスの切迫性/J.S.バッハ「平均率クラヴィーア曲集」では、グールド・グルダ・ジャレットの律動性/ベートーヴェン「後期ソナタ op.109/op.110/op.111」とシューベルト「後期ソナタ D.958/D.959/D.960」では、リヒテル・アファナシエフの彼岸性/シューマン「交響的練習曲」では、ポリーニ・プレトニョフの官能性……に惹かれるということ。

 しかし、最近、ECMから出ているシフによるベートーヴェンのピアノソナタ全曲(ほとんどがコンサートでのライブ録音)を初めて聴く機会があり、その演奏内容に深く惹き込まれてしまった。また、そのCDの解説書に添えられているシフによるベートーヴェンのピアノソナタに関する解釈(解説)も、音楽に関する専門的知識の無い私にでも、それなりに興味深く読み込める内容であった。

 このシフによるベートーヴェンのピアノソナタを聴いた全般的な第一印象は、自分なりのきちんと筋の通った、つまり、いい意味での知的な楽曲解釈を踏まえつつ、従来の伝統的・慣習的な演奏に囚われることなく新鮮で溌溂とした個性的な演奏ということ。そして、その個性的でありながら芯のある演奏が、ピアノという楽器を見事にコントロールして、一音一音(音の粒)を丁寧に響かせているのだ(ECMならではの録音技術もあると思うが)。

 という訳で先のコンサートに出かけたのだが、私にとっては期待以上の演奏内容であった。最初の「モーツァルト: ピアノソナタ K.570」は、シフらしい端正な演奏であったが、やはり私の好みとはちょっと違っていて、「やはり、あのシフか……」と思ったりした。

 しかしその後、確かな足取りで丁寧に一音一音を積み重ねながら、途中休憩なしでの演奏曲順とも相乗しつつ徐々にシフ自身の熱い情感を構築していった。とりわけ、プログラム最終曲の「「シューベルト: ピアノソナタ D.959」は圧巻。第1楽章から第3楽章へと“精妙な美しさ”と“狂おしい陰鬱さ”が交錯・共鳴しつつ、最終楽章に向けて“崇厳な精神のドラマ”が立ち現れてくる演奏で、私にとって魂の震える演奏となった。[註]

[註]オベラシティには、かつてシフが選んだベーゼンドルファーのモデル「290」があるはずだが、このコンサートでシフが弾いたのは、自身が持ち込んだベーゼンドルファーの最新モデル「VC280」とのこと。シフが奏でるこのベーゼンドルファーの豊かで明確な響きも、オベラシティの広いコンサートホールの音響性と調和しているようだった。

 今まで昔のCD録音を聴いてきただけの私にとって、今回のコンサートにおけるシフのピアニズムは、均整のとれた端正な演奏内容は変わらないにしても、そのようなアポロン的な知性により構築していった繊細な音の響き全体(和声・旋律・リズム)が、次第にこれまでの演奏とはやや異質な様相を示しはじめ、自らがピアノの響きに官能するようにディオニュソス的な情動性を露にしてきたのだ。[註]

[註]何気に「アポロン」と「ディオニュソス」を用いてしまったが、ここでの私の思いに近しいルドルフ・シュタイナーの言葉を以下に紹介する。[『ニーチェ みずからの時代と闘う者』(高橋巌訳/2016/岩波文庫)より]

「ディオニュソス的叡智は、外からは与えられない。それは、自己創出的な叡智なのだ。ディオニュソス型の賢者は、探求しないで、創造する。この賢者は認識しようとする対象の外に考察者として立つのではなく、自分の認識対象とひとつになっている。彼は神を求めない。……(中略)……ディオニュソス的人間は、どんな暗示をも理解する。激情のどんなサインも見逃さない。……(中略)……彼はどんな皮膚の中にも、どんな激情の中にも入っていく。彼は常に変身し続ける。」(「第2章 超人」p114)

「アポロン的叡智は、厳粛であることを特徴としている。アポロン的叡智は、自分のイメージを支配する彼岸の働きを重圧であり、権力であると感じている。この叡智は、たとえイメージ、ヴィジョンでしかないにしても、彼岸からの知らせをもっていると信じているので、厳粛にならざるをえない。アポロン的人間は、この認識の重圧の下で歩き廻っている。別の世界に由来する重荷を背負っているから、いつも威厳を備えている。無限なるものを告知されれば、どんな笑いも黙らざるをえないわけだ。」(「第2章 超人」p115)

~続く~

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