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武満徹〜雅楽と舞の「秋庭歌一具」


 東京オペラシティコンサートホールで今年11月30日に行われた雅楽アンサンブルの伶楽舎(音楽監督:芝祐靖)による武満徹「秋庭歌一具」は、私にとって今年一番の演奏会と言える。[補註]

 伶楽舎による「秋庭歌一具」は、武満徹没後10年にあたる2006年7月、明治神宮内苑における野外演奏を聴いたことがある。その際も、演奏者の配置を工夫することにより、現代的な雅楽としての「秋庭歌一具」の響きを月夜の空間に見事に響かせていたことを覚えている。

[補註]期待していたヴァレリー・アファナシエフのピアノリサイタル(10月20日、於:川口リリアホール/演奏曲:ベートーヴェン・ピアノソナタ No.8・No.14・No.23)は、弾いたベーゼンドルファー(ホールの係員によると、アファナシエフ本人の希望とのこと/私は、彼がベーゼンドルファーの強く豊かな響きを欲したものと推測)の高音部分が、私にの耳には、ホールの響き具合(残響)と調和せず音割れするかのように聴こえてしまった。

 調律含めたピアノのせいなのか、強いタッチの弾き方のせいなのか、ホールの残響効果のせいなのか、当日の私の体調のせいなのか、あるいは、それらの複合作用(ミスマッチ)なのか……その要因は不明だが、私としては、その演奏内容を十分に堪能することができなかった。

 とは言え、アファナシエフ本人も語るごとく“熱情”ではなく”“冷酷”を感受させるようなピアノソナタNo.23の弾きっぷりなど、彼らしいベートーヴェン「三大ピアノソナタ」のライブを聴くことができたので一応満足。

 なお、ドイツ・ハノーファーのベートーヴェンザールで2015年2月に録音されたCD(SONY)におけるベートーヴェン「三大ピアノソナタ」(弾いているピアノはスタインウェイ)は、録音技術もあるのだろうが、音の響きのバランスがよくとれており、アファナシエフらしいピアノをじっくり堪能できる。

 今回の演奏会は、第一部が芝祐靖の復曲・構成による「露台乱舞」(平安時代から室町時代にかけて奏されていたという雅楽)、第二部が武満徹の「秋庭歌一具」。

 第一部の「露台乱舞」については、雅楽そのものに縁遠い私には……当時の雅楽のあり様を垣間見るようで興味深く聴けた……くらいのことしか語りようがないが、第二部の「秋庭歌一具」は、雅楽アンサンブルとして、一時も弛緩することのない緊張と集中を保ちながら、“この今”における武満徹ならではの楽曲を響かせていた。

 この演奏会の「秋庭歌一具」は、勅使川原三郎と伊東利穂子という二人のダンサーによる舞(ダンス)を伴うものであった。こうしたコラボレーションの試みの多くは、個々の表現が有する本来の意味や質を拡散させがちなもの。

 しかし、ここでの伶楽舎による演奏と勅使川原三郎・伊東利穂子による舞は、個々の表現が互いに浸透・共鳴しながら、「秋庭歌一具」という楽曲が有する……濃密で引き締まった豊かな空間性、そして、“この今”のままに過去と未来が顕現するかのような垂直的な時間性……を感受させてくれた。

 ステージ両脇に分かれて踊り始めた勅使川原三郎と伊東利穂子による舞そのものも、なかなか惹きつけるものであった。舞の前半では、伊東利穂子の柔らかな舞が“女性原理”として、勅使川原三郎の意志的な舞が“男性原理”として、あくまでも視覚的・演劇的な様相で私の前に立ち現れてきた。

 しかし、しばらくして、その二人がステージ後方で交差しながら踊り始めると、伊東利穂子の舞がエーテル的な“身体性“へと、勅使川原三郎の舞がアストラル的な“意識性”へと、幻覚的・神話的な様相を帯び始めた。私という個我の内で、エーテル的な“身体性“とアストラル的な“意識性”とが渦を巻くようにして、“自我のドラマ”が覚醒してきたのだ。

 この勅使川原三郎と伊東利穂子による舞から触発された“自我のドラマ”は、武満徹の雅楽曲「秋庭歌一具」との新たな出会いともなった。それ故、さほど多くのコンサートに出向いたわけでもないのに、仰々しく「私にとって今年一番の演奏会」と言ってしまった。

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