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ルドルフ・シュタイナー〜思想としての伝授の門


 私にとって、30歳前後のルドルフ・シュタイナーが著した『自由の哲学(Die Philosophie der Freiheit)』(高橋巌訳、ちくま学芸文庫)は・・デカルト的な物心二元論やカント的な物自体におけるアポリア、あるいは、空想的唯心論や機械的唯物論が “観念としての一元論” であり “論理としての二元論” であること・・について、西洋思想史の流れを見通しながら “論理的” に解きほぐし、 “事実としての一元論” (後の “霊学としての一元論” )への視野を開かせてくれる思想としての “伝授の門” である。  『自由の哲学』のこうした内容・性格は、その本文を読めばもちろん分かることだが、副題を「或る近代世界観の根本思想 自然科学の方法による魂の観察成果」としていることにも現れている。  また、[1918年の新版のためのまえがき]として・・「私のその後の著書の中に述べられている霊的な経験領域について、本書が何も示唆しようとしていないことを訝しく思う読者がいるかもしれない。けれども当時私は霊学研究の成果ではなく、そのような成果をしっかりと支えてくれるような土台をまず築こうとしていたのである。」・・と記していることからも、『自由の哲学』におけるシュタイナーの意図が理解できる。  このようなシュタイナーの意図(配慮)により、『自由の哲学』を読む際は、シュタイナーの他の著作に増して、理念的な文脈のみを追いかけ 、 “研究的・学問的” に読み終えてしまいがちである。  しかし、そうした概念的・一般的な読みだけで事足りたとすれば、この「書物」に託されたシュタイナーのメッセージを聞き逃し、〈私=個的存在〉としての霊的な目醒めの萌芽を手放すことになる。  「宇宙の出来事を考察するとき、思考以上に根源的な出発点はどこにも存在しない」[第1部 自由の科学 - 第3章 世界認識に仕える思考]・・とシュタイナー自身が記すように、本書では一貫して思考の働きを重視することはあっても軽視したりはしていない。  また、こうしたシュタイナーの基本的な考え方は、霊学としての人智学の立場を明らかにするに至っても、決して変わることはない。  それ故、シュタイナーの「書物」に記された言葉の意味は、強い緊張と鋭い直感と深い共感に根ざした 、個としての “内なる決断力” を持って読むことなしには、理知的な概念論や現象的な感覚論の垢にまみれた私たちに届いてこない。そして、読み手自身の “霊性(霊的進化)の深まり” によって、その都度、シュタイナーの言葉もまたその深みを増すことになるのだ。  例えば、本書の[第2部 自由の現実 - 第9章 自由の理念]における・・「思考の本質そのものの中には、本当の「自我」は存在していても、自我意識は存在していない。」「「自我意識」は人体組織の上につくられる。意志行為はこの組織から現れてくる。」・・といった “自我意識“ に関する言葉。  このメッセージは、今の私にとって・・自我意識は、自我そのものの鏡像としてある。その自我意識は、自我そのものと不可分であり、そして、不可同である。・・と了解される。  また、同上箇所での・・「道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。」・・といった “道徳” に関する言葉。  このメッセージは、今の私にとって・・道徳は、自由な精神の内的必然として共時的・普遍的に生まれ育つものである。その道徳を、義務や徳目として教化することは、まやかしであり、そして、ニヒリズムである。・・と了解される。  晩年のシュタイナーが・・「人間の内部には、地上的なものだけでなく、壮大な宇宙過程も働いているのです。このことを感じとれる人だけが自由を理解でき、自由を正しく感じとれる、ということを示そうとしました。」・・と『自由の哲学』について語っていることを、本書の〈訳者あとかぎ〉で高橋巌氏が記している。このシュタイナーの言葉を心魂の内にしっかりと受けとめたい。  いま思うに、シュタイナーが霊学としてのメッセージを本格的に著した『神智学』『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』『神秘学概論』の3著を読んだ後、この『自由の哲学』を読んだ私は、ある意味で幸いだったようだ。  シュタイナーの膨大で貴重なドイツ語原文に個として向き合いつつ、その適切で魅力的な訳文により、シュタイナーの言葉を日本語として “伝授” し続けてくれている高橋巌先生にも感謝。

⇒「ルドルフ・シュタイナー」集成

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