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私のジャズ[1] コルトレーン・ジャズから〝もうひとつのジャズ〟へ

[1] コルトレーン・ジャズから〝もうひとつのジャズ〟へ


(1) コルトレーンにおける黒人としての実存と霊性


 災害的(政府の無策・迷走の対応により人災的側面も多々)コロナパンデミックのもとで、山歩き、美術・写真展、コンサート等への気ままな外出がままならい昨今、自宅で本を読んだり音楽を聴く時間が増え、音楽に関しては昨年末頃よりかなり集中的にのめり込んで聴いている。


 聴いているのは、主に私の偏愛する「Jazz」と「J.S.Bach」の器楽曲である。この中で感じていることや考えていることを本ブログにまとめることで、この先行き不透明な社会・時代(未だにコロナ以後の旧態依然たる〝経済成長策〟に現を抜かす現状等を含む)における自分なりの〝立脚点〟を見つめ直せればと思う。まずは、いわゆる「Jazz」として括られ楽曲について何度かに分けて書いてみる。


 以前、このプログで『間章(1)〜コルトレーンと神秘主義への言説』と題して……「コルトレーンの音楽表現の内に立ち現れる“神秘”を感受している私にとって、コルトレーンという演奏家とその演奏の存在によって、世間に流通し一般化されたジャズは、私のジャズとしての存在理由(raison d'être)を終えており、コルトレーン以降の70年代で“ジャズの終焉”を成就しているのだ。」……と記した。


 その想いは今も変わらないのだが、最近、ジェイムズ・H・コーン 〔註1〕による『誰にも言わないと言ったけれど』(2020年/新教出版社刊)と『黒人霊歌とブルース』(1983年/新教出版社刊)という示唆に富む刺激的な著作を読む機会を得て……これらの著作でコルトレーンを含めてジャズそのものについて触れられているわけではないが……「黒人解放への神学」という視点からコルトレーンにおける「神秘主義」を問い直すことができた。


〔註1〕ジェイムズ・H・コーン(James H. Cone)

【1938年、米・アーカンソー州生まれ。アフリカン・メソジスト監督教会牧師。黒人解放の神学の提唱者としてユニオン神学校教授を務め、2018年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出された。邦訳書に『イエスと黒人革命』『解放の神学』『黒人霊歌とブルース』(新教出版社)、『十字架とリンチの木』(日本キリスト教団出版局』などがある。2018年4月28日、逝去。】(新教出版社web-siteより引用)


 コルトレーンと「神秘主義」を直截に結び付けるような先の言葉は、彼が黒人(アフリカ系アメリカ人)として生きてきた〈時代・社会の状況〉、そして、その中で全身全霊をかけて自身の演奏を奏でてきたコルトレーンの〈黒人としての実存〉に対する私の理解の浅さ・甘さを露呈していることに気付かされたのだ。


 コルトレーンが生きる〈時代・社会の状況〉と彼自身の〈黒人としての実存〉との厳しく切迫した緊張と相克の中でこそ、コルトレーン演奏における霊性としての「神秘主義」が私たちの心魂に立ち現れているのであり、それ故に、「世間に流通し一般化されたジャズは、“私のジャズ”としての存在理由(raison d'être)を終えており、コルトレーン以降の70年代で“ジャズの終焉”を成就している」と断じることができたわけだ。



(2) ジャズの終焉からもうひとつのジャズへ


 「コルトレーン以降の70年代で“ジャズの終焉”を成就している」と断じる時、その終焉を迎えたジャズとは……私自身のジャズ史として、つまり、私の個人的な思い入れとして……即興=インプロビゼーション(improvisation)による演奏を確立していったチャーリー・パーカー(Charlie Parker/1920 - 1955/カンザス州出身/アルトサックス奏者)、バッド・パウエル(Bud Powell/1924 - 1966/ニューヨーク出身/ピアノ奏者)、セロニアス・モンク(Thelonious Monk/1917 - 1982/ノースカロライナ州出身/ピアノ奏者らによるビバップ(bebop)に始まるモダンジャズを意味しており、さらには、そのモダンジャズを主流的・主体的に担った演奏家たちは黒人(アフリカ系アメリカ人)たちであった。


 こうしたモダンジャズは、黒人(アフリカ系アメリカ人)として生きる〈状況〉と〈実存〉との厳しく切迫した緊張と相克の中においてこそ、その即興演奏における衝迫的表現が立ち現れているのであり、そうした衝迫的表現がひとつの〝霊的な高み〟=「神秘主義」として私の心魂を感動・共振させるのがコルトレーン・ジャズなのだ。

 

 しかし、コルトレーン以降のジャズ……非黒人(非アフリカ系アメリカ人)にる演奏も含めて……からは、〈時代・社会の状況〉として、また、〈黒人(あるいは非黒人)としての実存〉として、さらには、私たち聴き手自身の〈状況〉と〈実存〉のあり様として、コルトレーン・ジャズの如く〝霊的な高み〟を感受しえる可能性は、様々な文化的要因からも希薄なものとなってしまった。〔註2〕


〔註2〕ここで指摘する問題は、むろんジャズのみではなく、すべての表現行為=芸術における〈状況〉と〈実存〉のあり様に関わることである。今ここで深入りすることはできないが、端的に言えば、現代世界における商業主義的消費文化の席巻ととともに、〝根無し草的なグローバリズム〟とその相補的な現象としての〝排外的なエスノセントリズム〟がもたらしている文化的意味合いも考えるべきだろう。


 コルトレーン以降のジャズの中には、「世間に流通し一般化されたジャズ」として、自らが生きる〈状況〉と自らの個的な〈実存〉との厳しく切迫した緊張と相克を忘却する演奏となり、他の誰にでも代替え可能な商品としての〝お洒落なジャズ〟とか〝癒しのジャズ〟やらに化けてしまったジャズ擬きも少なくない。


 それ故に、コルトレーン以降のジャズを「ジャズの終焉」と断じたわけなのだが、その一方、未だに偏愛し聴いている〝私のジャズ〟が限定的ながら存在していることも事実である。


 この今、こうした〝私のジャズ〟の「存在理由」こそが、コルトレーン・ジャズから〝もうひとつのジャズ〟としてのオルタナティブなジャズへの可能性の意味であり、さらには、前述した「この先行き不透明な社会・時代における自分なりの〝立脚点〟」にも通底することのように思われる。



〜続く〜

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