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ベートーヴェン「ディアベッリ変奏曲」[3]〜『バガヴァッド・ギーター』と共振する心魂のドラマ


 最近私が「ディアベッリ変奏曲」にすっかり嵌まってしまった理由は、これまで触れてきたような音楽固有のあり方としてだけではなく、「ディアベッリ変奏曲」で奏でられる心魂のドラマが、ここ最近、じっくり読んでいる『バガヴァッド・ギーター』で現されている精神性(=霊性)と触れ合うようにして共振するからだ。

 『バガヴァッド・ギーター』は、古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の第6巻に収められているヒンドゥー教の重要な聖典である。私は、この『バガヴァッド・ギーター』をバガヴァーン(至上者) による聖典であると共に、哲学的・文学的にも魅力的なギーター(詩)として読んでいる。とりわけ今は、高橋巌先生による講義に参加しながら、ルドルフ・シュタイナーによる『バガヴァッド・ギーター』に関する論考を通して、また、田中嫺玉さんの『神の詩』と題する素敵な訳書を読むことで、『バガヴァッド・ギーター』の世界に浸っている。[註1]

[註1]『バガヴァッド・ギーター』そのものについては別の機会にきちんと触れたいが、その概略としては、サンジャヤと呼ばれる吟遊詩人(御者)の回想として語られた……パーンダヴァ軍の王子〈アルジュナ〉が、彼の導き手として御者を務める〈クリシュナ=バガヴァーン(至上者)の化身〉との対話により、自らがクシャトリアとして課された親族間の戦闘という深い現世的苦悩から、宗教的信仰・宇宙的啓示へと導かれていく……という18の章からなる韻文詩編である。

 『神の詩』における田中嫺玉さんの訳文は、まさに、ギーターの世界が「詩=歌」として生き生きと描かれており、論理性に拘るアカデミックな訳文にはない魅力がある。以下に紹介する「バガヴァッド・ギーター」は、すべてこの田中嫺玉訳『神の詩』(1988年、三学出版)からの引用である。

『バガヴァッド・ギーター』の詩編に心をおきながら「ディアベッリ変奏曲」を聴くと、あるいは、「ディアベッリ変奏曲」の響きに身をおきながら『バガヴァッド・ギーター』を読むと、私の心魂の内で……[第1章 アルジュナの苦悩]において、親族同士の戦闘を目前にして躊躇・戦慄するアルジュナが語る次のような言葉は、第16変奏・第17変奏の「焦燥的苦悩」から第20変奏の「不吉な不安感」へ至る音律と共振する歌……として谺する。

(28)おおクリシュナよ    血縁の人々が敵意を燃やし    私の目の前で戦おうとしているのを見ると    手足はふるえロはカラカラに乾く

(29)体のすみずみまで慄えおののき    髪の毛は逆立ち    愛弓ガーンディヴアは手から滑り落ち    全身の皮膚は燃えるようです

(30)大地に立っていることもできず    心はよろめき気は狂いそう……    おおクリシュナよ    私には不吉な前兆しか見えません

 また、[第18章 離欲の完成(最終章)]において、梵我一如(ブラフマンとの合一)の悟りの境地を語るバガヴァーン(クリシュナ)の次のような言葉は、第29・第30・第31変奏の「哀切と慈悲」の音律と共振する歌として谺する。

(52)静かな場所に住み    少食にして体と心と言葉を抑制し

   常にヨーガに余念なく    世事に煩わされず

(53)我執 力 物欲 誇りを捨て    情欲と怒りから離脱し

   所有意識を持たず常に平静である人は必ず    ブラフマンと合一し至上完全の境地に到る

(54)この境地に達した者は    ブラフマンと合一して大歓喜に浸り

   憂いなく望みなく 全生物を平等に視る    そしてわたしに純粋な信愛を捧げる

 そして、[第18章 離欲の完成」(最終章 - 終結部)]において、アルジュナがクリシュナとして、あるいは、クリシュナがアルジュナとして、宇宙普遍相のもとに顕現する形相(すがた)を語るサンジャヤの次のような言葉は、第32変奏の「歓喜」から33変奏の「浄化」へと至る音律と共振する歌として谺するのだ。

(76)王よ クリシュナとアルジュナの    この驚嘆すべき神聖な対話を    思えば思うほど私の歓喜(よろこび)は溢れ    感動のために心身くまなく震えています

(77)王よ クリシュナの言語に絶する    あの宇宙普遍相の偉大な形相(すがた)を    思えば思うほど私の驚きはいや増し    大歓喜の波がくりかえし胸におしよせます

(78)全ヨーガの支配者クリシュナの在(いま)す所    弓の名手アルジュナの居る所    必ずや幸運と勝利と繁栄と    そして永遠の道義が実在することを私は確信します

 ベートーヴェン自身、『バガヴァッド・ギーター』を引用された形として部分的に読んでいたらしいが(その詳細については不明)、むろん、「ディアベッリ変奏曲」と『バガヴァッド・ギーター』が響き合い共振するのは、今の私自身の個的な心魂のあり様としてであり、「ディアベッリ変奏曲」と『バガヴァッド・ギーター』の直接的な因果関係とは別の問題である。

西洋クラッシック音楽そのものを相対化して聴いている私は、『バガヴァッド・ギーター』に示されている古代的精神が……ギリシャ・ローマ文化、ケルト文化等の古代ヨーロッパ地域における精神性とも通底しつつ……後世の西洋文化・西洋音楽における精神性の背後にも秘められている一つの証として、ベートーヴェンの「ディアベッリ変奏曲」を感受する。[註2]

[註2]最近、「ディアベッリ変奏曲」のみならず、私の偏愛する様々な芸術作品(ジョン・コルトレーンのジャズ的な即興演奏、マーク・ロスコの神話的な抽象絵画、吉増剛造のシャーマン的な詩編・映像 etc.)らが、『バガヴァッド・ギーター』の世界と響き合うようにして、私の心魂の内で谺する。私にとって、『バガヴァッド・ギーター』における叡智が、時空を越える「宇宙普遍相の形相(すがた)」として顕現し、個的で多様な精神性を有する様々な楽曲、あるいは、芸術作品を、その世界の内に包み込みながら宇宙的霊性へと浄化し融合させていくかのようだ。

 「ディアベッリ変奏曲」が、私の感受するように自由で多様な精神的即興性を許容する“偉大な楽曲”であるにしても、あくまでも、その音律は西洋クラッシック音楽の伝統に依拠している。その音楽的・文化的な土壌を越えてまで、あるいは、『バガヴァッド・ギーター』の古代的精神へと時代を遡らせてまで、「ディアベッリ変奏曲」で感受される精神性を一般化・普遍化してしまうことは、伝統的な西洋クラッシック音楽そのものを普遍化・世界化する一面的な啓蒙主義であり、音楽的なグローバリズムによる覇権主義でしかないだろう。

〜完〜

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