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「オトダマ コトダマ 阿吽」〜能とパーカッションの共振


 武満徹作品の演奏で聴いていた加藤訓子と能楽とのコラボレーションということに惹かれて出かけた観世流シテ方・中所宜夫とパーカッショニスト・加藤訓子による『オトダマ コトダマ 阿吽』(くにたち市民芸術小ホール/2015.11.1)は、なかなか印象深いものだった。

 観世流シテ方・中所宜夫による能に接するのは今回初めて、というか、これまで関心を抱きつつも能楽そのものにほとんど縁がなかった。パーカッショニスト・加藤訓子は、かつて、武満徹「カシオペア」を東京フィルハーモニー(指揮:若杉弘)との演奏で聴いている。それは東京オペラシティコンサートホールでの『武満徹の宇宙』と題されたコンサート(2006.5.28)におけるプログラム中の一曲であった。

 この時の加藤訓子の演奏は、現代性と即興性のあるスポンテニアスなもので、武満徹の楽曲解釈としても私好みのものだった(このコンサート全曲がフォンテックからCD化されているが、高橋悠治のピアノによる「アステリズム」とクリスチャン・リンドバーグのトロンボーンによる「ジェモー」も聴き応えあり)。

 『オトダマ コトダマ 阿吽』(くにたち市民芸術小ホールによるプロデュース作品、初演は同ホールにて2013年2月)は、「音とコトバの宇宙論 ー花を奉る(石牟礼道子の詩より)」との副題にあるように、中所宜夫と加藤訓子の創作・出演により、石牟礼道子の「花を奉る」を主なモチーフとして構成されている。全体は・・〈序〉〈舞〉〈中入〉〈翔〉〈立廻り〉〈舞〉・・という6部からなる構成だが、途切れることなく一つの作品として演じられる。

 シテの舞とともに演じられる主な内容は、〈序〉として・・パーカッションによる武満徹「ムナーリ・バイ・ムナーリ」/謡による井筒俊彦「詩と宗教的実存」からのポール・クローデル「都市」の引用。〈舞〉として・・パーカッションによるヤニス・クセナキス「ルボンa」。〈中入〉として・・パーカッションによるヤニス・クセナキス「ルボンb」とアルヴォ・ペルト「アリーナのために」/謡による石牟礼道子「花を奉る」の引用。〈翔〉として・・パーカッションによる即興曲「まぼろしの花」/謡による石牟礼道子「花を奉る」の引用。〈立廻り〉として・・謡による石牟礼道子「花を奉る」の引用。〈舞〉として・・パーカッションによるハイウェル・デイヴィス「パール・グウンド」と即興曲「花を奉る」/謡による石牟礼道子「花を奉る」の引用。

 この『オトダマ コトダマ 阿吽』の主なモチーフとなる石牟礼道子「花を奉る」は、元々は熊本市真宗寺の御遠忌行事に寄せて1984年に書かれたが、東日本大震災(2011.3.11)後に詠まれて大きな反響を得た作品。その後半部分を『オトダマ コトダマ 阿吽』の最終場面〈舞〉における謡のコトバとして紹介すると・・・・

 かえりみれば   眼裏にあるものの御かたち

 かりそめの御姿なれども

 おろそかならず ゆえにわれら

   このむなしきを礼拝す この空しきを礼拝す

 然して空しとは云わず現世は

 いよいよ地獄とや云わん虚無とや云わん

 ただ滅亡の世迫るを待つのみか

 ここに於いて われらなお   

 ここに於いて われらなお

 地上にひらく   一輪の

 地上にひらく   一輪の花の

 ちからを念じて合掌す

 この石牟礼道子「花を奉る」は、その詩文自体が既に言霊を有する希有な“リテラシー(書きコトバ)”であるが、シテの謡として演じられることにより、加藤訓子のパーカッション=「オトダマ(音霊)」とも共振し、世代と人称を重層的に通底する身体的・口承的な“オラリティ(話しコトバ)”へと変容し、より深くリアルな「コトダマ(言霊)」を舞台空間に現前させたのだ。

 加藤訓子のパーカッションもダイナミックで溌溂としたもので素晴らしかった。特に、クセナキス「ルボン」の演奏では、シテの静的な舞と対照を為す身体的なパフォーマンスにより、ヤクシー(夜叉女)の如く叩き出される「オトダマ(音霊)」は、先の武満徹「カシオペア」演奏を超えるものだ。おそらく、シテ方・中所宜夫の舞と謡(そして、地謡)という“能”とのコラボレーションによる共振力のゆえなのだろう。そして、石牟礼道子「花を奉る」という“エクリチュール(書かれたコトバ)”の持つ霊性が、この共振を強く支えているのだ。

 今回の舞台は、よいものに出会えたという実感である。「ただ滅亡の世迫るを待つのみか」という現代にあって、「オトダマ コトダマ」で満たされた[くにたち市民芸術小ホール]という小さな空間が、観客としてあった私とパートナー、全ての観客、そして一気に、この今を生きる全ての人々へと、「神域の森」(中所宜夫の謡のコトバより)として広がる気配を感受したのだから・・公演当日、観客席に空きがあったのは本当にもったいないことだ。

 『オトダマ コトダマ 阿吽』を創作・出演した観世流シテ方・中所宜夫とパーカッショニスト・加藤訓子と共に、この舞台をプロデュース・公演した[くにたち市民芸術小ホール]による気骨ある公的な活動にも、惜しみない拍手と声援を送りたい。そして、これを機にしばらく、能舞台にも接してみようと思う。

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