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間章(2)~独白的言説と即興をめぐって


 先に「間章〜そのコルトレーンと神秘主義への言説」として、ブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように(Comme à la radio)』のライナーノーツを間章が書いていることに触れた。

 1972年に彼が初めてライナーノーツとして書いた文章の一節・・「ある音楽の価値や意味の判断は社会的にや一般的にあるとするのは半ばまちがいだ。それはいわば個人的事件として、曖昧さの中に見すえられるものであって、ある音楽の成立を〈個々〉の〈私〉という領域で考えないあらゆる理論と解説は無効である」。

 この言葉の内には、どこまでも個的な単独者としてラディカルに音楽と言葉に向き合おうとする間章の生涯を貫いた構えが示されているとともに、そのようにして彼が書き残した言説を読む者に対しても、ラディカルに音楽と言葉に向き合うことが求められている。

 従って、ラディカルな音楽と言葉への関わりを必要としない者にとっては、間章の書き残した言説は不要ということであり、同時に、その言説は読み手に向けてのものではなく、間章という一人の自己意識(自我)に向けてのものであるということを意味する。

 彼の言説は他者(他我)を必要としておらず、書き記された刹那にその役目を終える“独白”であるが故に、読む者も自らの“独白”として、その音楽を聴き、その言葉を読むことの他に意義を有しないのだ。

 「我々が現在持ち得るあらゆる意味体系、観念体系を超えた全く新しい認識の地平とそれを語り得る新しい言葉の地平」・・から語られるべきとし・・・・「私が〈即興〉と呼ぶものは、ありとあらゆるコンセプトやスタイルやフォームの中のひとつのスタイルとしての〈即興〉ではなく、それらのスタイルやフォームを超えた所に在るものとしての〈即興〉である」、「すべての行為は、演奏や文章を書くことや画を描く行為は、即興的であればある程すばらしい」(『間章著作集Ⅲ』所収、[〈即興〉ノート/1972])・・と記すような間章の“即興”への拘り方ついても、私は、そうした“独白的言説”との絡みで理解する。

 そして、間章におけるそうした“独白的言説”、あるいは、“即興”への拘り方が持つ避けがたい宿命として、そのラディカリズムの深度と限界と悲痛を見る。

 “独白的言説”、あるいは、“即興”であるが故に、それは、現前の自己意識のみに依拠する発語としての深みを帯びる。一方で、その代償として、それは常に、自己意識に囚われ凝固する閉じた自我という「行き止まり」に曝されるということだ。

 その代償は、“独白的言説”や“即興”が、自意識内部でぐるぐると空転し観念化する中で、凍てつく堆積物と化し、自我本体に氷結する人格的・存在的な危機となって現出する。

“独白的言説“や“即興”が本源的に有するこうした宿命は、幾多の現代的な芸術表現と同様、単独者としての表現行為に避けがたくあり、その存在的な危機に身を置くことで、自己意識として表象化する自我が解き開かれ、その自我を受肉化する身体に秘められた宇宙的霊性へと目醒める契機でもあり可能性でもあるのだ。

  間章の言葉・・「私にはすべての真に苦闘した人々がこの即興的次元に辿りつくために〈方法の地獄〉をとおっていったという認識がある。ゴッホにしてもマラルメにしても・・・・。ヨーガや禅にしても・・・・。」 (同上書)・・での〈方法の地獄〉とは、その存在的な危機に立つことを意味する。

 私は、間章の言葉の内に、そうした“存在としての危機”に立ち続け、それを乗り越えようとした彼のラディカリズムの苦闘と悲痛を感じ、その危機を前にして生き急いだ彼の焦燥と宿命を想う。

 〜続く〜

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