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間章(1)〜コルトレーンと神秘主義への言説


 先日、長いこと針を落としていなかったブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine/Areski/Avec Art Ensemble of Chicago)のLP『ラジオのように(Comme à la radio)』(Columbia、1972)を聴いた。きっかけは、このLPのライナーノーツを書いた間章(Akira Aida、1946-1978)の著作集全3巻(月曜社刊)を1年がかりでひと通り読んだからだ。

 当時アバンギャルドな音楽として登場したこのLPは、今聴いても・・フォンテーヌの出自からなのかシャンソン的でもあり、アレスキーの影響からなのかイスラム的でもあり、演奏がアート・アンサブル・オブ・シカゴからなのかフリージャズ的でもあり、女優としてのフォンテーヌらしく演劇的でもあり・・というようなジャンル分けを拒絶する(もっとも音楽のジャンル分けなど商品販売のタグとしての意味しかないが)不思議な音楽である。

 昔このLPを購入したのは、音楽としての内容に惹かれてというよりも、間章によるライナーノーツをどこかで読んだからだと思う。雑誌『ジャズ』等における間章の音楽批評は、雑誌『スイングジャーナル』等によく掲載されるコマーシャル的な他の音楽批評とは異質で、当時の時代精神を象徴するようにラディカルであるとともに、彼独特の繊細とも言える詩的表現を秘めていた。

 一時、彼の文章に触発されたこともあり、私も稚拙なジャズ論を書いたりした。しかしその後、歳を重ねた私は、1970年以降のジャズ演奏に興味が持てなくなる中、間章が若くして亡くなった前後も含め、これまで彼の文章に接することはなかった。

 しかしここ数年の間、どういう契機があったのかは不明だが、月曜社という所から、間章の著作集全3巻・・文章がびっしりと詰まった2段組みで、本の表裏・背・三方小口とも真っ黒という装丁・・が刊行された。

 数年前、真っ黒な装丁本は何かと思って本屋の棚から手に取り、その著者名を見てパラパラと内容を覗いてみた。間章独特とも言えるラディカルで難解そうな用語が並び、真っ黒な装丁の2段組みによる文字の詰まったこの本を、いったい誰が購入して読むのだろうかというのが最初の印象である。

 しかし、間章は、私なりに“ジャズの終焉”を見ているジョン・コルトレーンやエリック・ドルフィーについて言及し、彼の早すぎた晩年には、ルドルフ・シュタイナーに注目していた。また、私の音楽批評との出会いは、小林秀雄や吉田秀和でもなく、植草甚一や油井正一でもなく、間章であった。

 そんなことから、時としてアジテーションのごとく激する彼の“若書き”の文章に少なからぬ戸惑いと違和感を感じながらも、結局、私にとっての“ジャズの終焉”、そして、その「終焉」(=間章の言葉では「死滅」?)について発言し行動し続けた間章の音楽批評について、半世紀近く前に書かれた彼の文章をひと通り読むことで、私なりにひとつのピリオドを打とうと思い至り、今回、全3巻の著作集を読んだ。以下の引用は、全てこの『間章著作集』(月曜社刊)からである。

 23歳になる1969年に発表した[シカゴ前衛派論]と[前兆又はシカゴ前衛派の未明へ](雑誌『ジャズ』掲載)で、間章は公的な形でのジャズ批評を始めた。そこで・・「幸か不幸か俺はジャズを言語によって考えようとしているし、それは俺にとってさけられないものとして受けとめている。」([シカゴ前衛派論])、あるいは、「ジャズを内部にいだく時あるのは、ジャズと自我に対するある覚めそしてこごえる感覚にも似た一つの痛みなのだ。」「俺がジャズに向かうとき、俺がそのとき「ジャズ」という言葉が形成してゆく暗闇を貫いてある自律的空間に向っていることに気づく。」[前兆又はシカゴ前衛派の未明へ])・・と書く間章は、既にこの時点で、生涯を貫く“ジャズ(音楽)”への関わりとその“言語批評”への決意を率直に開示している。そこで今回は、[シカゴ前衛派論]における間章の言説について、焦点を絞って綴ることにする(下記における間章の引用は、全て[シカゴ前衛派論]から)。

 ジャズを「自我への覚め」と同根のものとして、「こごえる一つの痛み」と記す若き間章の感受には、歳を経た今の私も同意する。しかし、それと同時に・・その覚めと痛みの因果は永劫のものではなく、その所在(在り処)と縁起(拠り所)について、自己内部の心魂における霊(Esprit/Geist/Spirit)の働きとして気づくとき、その「自我への覚め」は「こごえる一つの痛み」を溶かす熱として変容・霊化していく・・ということを今の私は付記したい。

 さて、間章が展開するジョン・コルトレーンと神秘主義に関する言説について、今の私の言葉を重ねることが本稿の主題となる。「コルトレーンの場合は自らを混沌の中に置くことを選ぶことによって、混沌とそのカタルシスに自らを合一させ、その彼岸にある絶対者=超越者=神に向かおうとした。」「コルトレーンはあの長い彼の神を発見する闘いの人生の中でついに宇宙哲学=神秘主義に至る。」・・との指摘には納得。

 しかし、疑問に思うのが、この時の間章が聴いているコルトレーン晩年の演奏内容である。間章は・・「彼の晩年のジャズは彼の世界観と現実のたとえもようのない相克、彼の宇宙哲学と彼の肉体と現実の融合離反でしかなかった。俺達はコルトレーンの『オム』『メディテーション』から『アセンション』の間にある、彼の全き行き止まり、出口なしのジャズ空間を少なくとも俺達自身の苦痛として受けとめてはいなかったか。」・・と言う。

 ここで、間章が「全き行き止まり」として言及している『オム』『メディテーション』『アセンション』が録音された1965年は、コルトレーンがさらなる演奏の深化を模索する中で、「黄金のカルテット」としての演奏スタイルを確立していたマッコイ・タイナーとエルビン・ジョーンズがコルトレーンのもとを去り、新たなメンバーとしてファラオ・サンダーズ/アリス・マクロード(コルトレーン)/ラシード・アリらが参加することになる混乱と変貌の時期である。演奏グルーブとしても新旧メンバーが折り重なるように参加しており、演奏全体としてかなり危ういバランスのもと、自らを抉るように激しく演奏するコルトレーンには、確かに私も、出口の見えない焦燥と苦渋に必死に抗う悲痛な姿を感じる。

 この意味で、『オム』『メディテーション』『アセンション』という、この時期だけの演奏を聴いていると、間章が「全き行き止まり」「出口なしのジャズ空間」と言うのも理解できる。しかし、1966年以降のファラオ・サンダーズ/アリス・マクロード(コルトレーン)/ラシード・アリらとのコルトレーン晩年の演奏を聴くと、私は、『オム』『メディテーション』『アセンション』とはやや異質な、焦燥と苦渋に捕われた“苦行僧”から現実へと廻向する“遊行僧”として、解放され転生していく豊かな音楽的律動を感じる。

 私が聴いたコルトレーン晩年の演奏としては、このブログサイトで以前に触れた・・1973-2011年発表『Live In Japan』(1966.7.11/22 録音)、2001年発表『The Olatunji Concert』(1967.4.23 録音)、2010/2014年発表『OFFERING Live At Temple University』(1966.11.11 録音)・・の3つのライブは聴いてしかるべき演奏内容だ。しかし、『Live In Japan』以外の2つのライブ録音は、残念ながら、生前の間章に届かなかった。

 この3つのライブ録音を聴くことができる私にとっては、そのコルトレーンの演奏は「宇宙哲学と彼の肉体と現実の融合離反でしかなかった」ものではなく、「全き行き止まり」「出口なしのジャズ空間」を音楽的且つ肢体的な律動とともに突破し解放するものであり・・『OFFERING Live At Temple University』でのコルトレーンの肉声による“雄叫び”が象徴的・・、そこでは、「融合離反」という二元的世界を超えて、彼の宇宙哲学と肉体が現実とともに復活・再生するジャズ空間が立ち上がってくる。

 さらに、間章は・・「ジャズ神秘主義はジャズの行き止まりである。そこにおいてはジャズのジャズたるゆえん、すなわち自己否定、未来の回復はすでに無い。現実へ下降する神秘主義などあり得ないし、絶対他者をいだかない神秘思想などは決してあり得ない。コルトレーンにおいては絶対愛をテナーサックスで吹こうとしたがそれは現実が苛酷であればあるほど、現実を切り落した神秘主義へ向わざるを得なかった悲劇として現れたに違いない。」・・と書き継ぐ。

 確かに、一般的には人気と評価の高い『A Love Supreme』(1964.12.9 録音)などは、コルトレーンの“精神性”が先走り、その“精神性”と演奏内容が二元的に並立したまま、音楽が精神主義に屈服させられていく「悲劇」を垣間見せて、「神秘主義としてのジャズの破産」が私にも予感される。

 しかし、コルトレーン晩年における演奏の全体像に向き合うとき、その演奏内容を「神秘主義・神秘思想」と重ね合わせ、絶対他者を前提とした自己否定と現実性を欠いた「悲劇」とする間章の感受と理解についても、今の私には同意できない。

 若かりし間章にとって、「神秘主義・神秘思想」は「主義(イズム)」というひとつの観念体系としてしか見えていないように思われる。私にとっては、“神秘”が“神秘”であるのは、それが「主義(イズム)」としてひとつの観念体系ではないことにあるし、絶対他者を“前提”として“神秘”が立ち現れるわけでもないし、「自己否定」を為そうとする“自己意識”そのものが霊化される所に“神秘”があるのであり、現実に下降する(例えば、“輪廻転生”や“受肉”として)からこそ“神秘”なのだ。

 もっとも、「ジャズ神秘主義はジャズの行き止まりである」という間章の指摘については、私もまた、そのカオス(渾沌)とカタストロフィー(浄化)の演奏の中から、自らに“神秘”が開かされ“遠き呼び声”が聴かれるとき、彼の感受とは違った意味で、「ジャズの行き止まり」があり“ジャズの終焉”があると了解している。

 つまり、コルトレーンの音楽表現の内に立ち現れる“神秘”を感受している私にとって、コルトレーンという演奏家とその演奏の存在によって、世間に流通し一般化されたジャズは、“私のジャズ”としての存在理由(raison d'être)を終えており、コルトレーン以降の70年代で“ジャズの終焉”を成就しているのだ。

 〜続く〜

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