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山尾三省〜聖老人と「3つの遺言」

 「南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。われらの日本国憲法の第九条をして、世界の全ての国々の憲法第九条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。」・・と、末期ガンを患う中で「子供達への遺言・妻への遺言」を残した山尾三省。

 明日の衆院特別委員会において、「安全保障関連法案」なる前代未聞の違憲法案の強行採決を目論む自公与党。このような動きを前にして、私は今ここで、山尾三省が残してくれた「遺言」を噛み締め、そして、彼が語るように「もっともっと豊かな”個人運動”」を多くの魂の友たちと共に持続するため、この山尾三省の「遺言」を紹介したい。

 そして、この「遺言」を私たちに伝え残してくれた山尾三省に深い敬意と感謝の念を込めて、気恥ずかしさを顧みずに、30年以上も前に私が書き記していた「わたしの師・山尾三省のこと」という拙文もあわせて紹介する。

*山尾三省「子供達への遺言・妻への遺言」:『南の光の中で』(野草社刊、2002.4.15)より抜粋

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 まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。 神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。  これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。  第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。  遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。  南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。  われらの日本国憲法の第九条をして、世界の全ての国々の憲法第九条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。

 以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。  ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。  つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。  死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。

瓜谷文化振興財団発行『モルゲン』紙(平成十三年七月七日号)に発表。

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*拙文「わたしの師・山尾三省のこと」:『そのほかに』(私家版同人誌、1984.12.24)より

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 先日、家族で近くの蕎麦屋に行った。わが彼女は疲れ気味。子供らは何やら元気一杯に語りかけてくる。私は何気なく店に置いてあるその日の夕刊を手にした。一面、二面、三面と軽く目を通していくと、私の見知った人物が載っている。記事に曰く、「半農半詩、屋久島に生きる(だったかな?)」。あの懐かしい山尾三省だった。

 「愛することは、農作業と、詩を書くことと、信仰を深めることだ。」と語ったという山尾三省は、今、屋久島に生きる。確か、6人の子供と妻と共に。屋久島に移り住んだのは7〜8年前だったと思う。あの縄文杉と共に生きるために。

 私が三省と出会ったのは、私が18〜19歳で、彼が31〜32歳の頃と思う。60年安保世代であるという三省たちは、当時、彼らの希望を「部族」と呼ぶ共同体に結実させようとしていた。その頃に、三省たちの書いた『部族宣言』は次のようなものだった。

「部族社会は、まさに夜明けの太陽のごとく、全地上にあまねく光を投げかける。国家社会の下に息絶え絶えに生活している他の人類に対し、幾度も幾度もぼくらの内面の呼吸を、大地の呼吸、魂の呼吸を取り戻させるべく。『大地に帰れ』と、『そして自らの内に大地の呼吸を取り戻せ!!』と。」

 彼らは、諏訪之瀬島などとともに東京の国分寺にも共同体を創っていた。そして、そこには、三省が「神の所有物」と呼ぶ“スナック”があった。

 私は、その“スナック”の客として三省に出会った。その店には、ヒンドゥー教の神々やアメリカ・インディアン、そして、キリストの絵があり、ボブ・ディラン、ザ・バンドやシタールの音楽が流れていた。私は、確実に、この場でひとつの時代を、青春を過ごした。いつも長靴を履いている三省は、そのような私たちを暖かく見つめていてくれた。圧倒されるような情念の嵐に翻弄されていた私たちを、ただじっと、深い悲しみを湛えた目で優しく・・。それは、「ただあるがままに」と語るかのようであり、不思議と私たちは安らぎを覚えたものだ。

 私は、その後の三省が歩んだ道は、ほとんど何も知らずにきた。昔、交わした言葉も二言三言。三省は、もちろん私のことを知らない。しかし、いつの頃か、私は歳をとったら三省のような“大人”になりたいと思っていたようだ。

 新聞記事によると、三省は故郷の神田を訪れたそうだ。そして、こう語ったという。

「神田にいても縄文杉が見える」

 ああ、やっぱり三省だなと思う。私は、“社会的役割”という面からすれば、三省とは異なる道を歩んで、あの頃の三省の歳になる。けれどもやはり、私は私の、三省が「聖老人」と呼ぶ“縄文杉”を見ていたいと思う。誰にとっても、“社会的役割”というのは、その“縄文杉”への歩みなのだ。

 とは言え、“社会的役割”の持つ重みはあまりに大きく、人はみな自らの“縄文杉”を見失いがちである。あの新聞記事は、三省が私に、このことを呼びかけてくれたのだと思う。三省は私を知らないが、三省の生き方は私を知っている。

 聖老人、わたくしは あなたに尋ねたかった

 けれども あなたはただそこに静かな喜びとしてあるだけ

 無言で一切のことを語らなかった

 わたくしが知ったのは

 あなたがそこにあり そして生きている ということだけだった

 そこにあり 生きているということ

 生きているということ

 聖老人

 あなたの足元の大地から 幾すじもの清らかな水が沁み出していました

 それはあなたの 唯一の現された心のようでありました

 その水を両手ですくい わたくしは聖なるものとして飲みました

*『聖老人』(山尾三省著、めるくまーる社刊、1981.10.)より抜粋

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