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ジョン・コルトレーン〜渾沌と浄化としての音律


 ジョン・コルトレーン(John Coltrane、1926.9-1967.7)が初リーダとして31歳となる年に録音した『Coltrane』(Prestige/1957.5.)は、ひとつの音楽LPとして完成度の高い作品だ。このLPにおけるコルトレーンのテナーサックスは、かつてのマイルス・デイヴィス(Miles Davis)クインテットでの演奏に比べると、その音楽的技量を高め、堂々と溌溂とした音楽的な律動(=音律)を表現している、LPジャケットの意欲的な表情を見せるコルトレーンの写真もなかなかいい。  とはいえ、これ以降、10年間にわたるコルトレーン音楽の変容と深化に共鳴し同伴する私にとって、この頃のコルトレーン音楽は、可能性に満ちた魅力的な音楽であるにしても、いわゆるJAZZとしての範疇に収まる表現であり、その後、怒濤のように疾駆するコルトレーン音楽のレクイエム的なスタートとして聴こえてしまう。  コルトレーンは、1957年夏のセロニアス・モンク(Thelonious Monk)が率いるバンドでの演奏において、清新で独自なスケール進行とリズム感覚を持つモンクのピアノ演奏に触発されながら、その演奏技術をさらに進化させると共に、多大な音楽的インスピレーションを得ている。それは、『THELONIOUS MONK with JOHN COLTRANE』(Jazzland/1957.6.-7.)と『Monk with Coltrane Live At Carnegie Hall』(Blue Note/1957.11.)という2枚のアルバムにより聴くことができるし、彼自身が残した言葉からも知ることができる。  『GIANT STEPS』(Atlantic/1959.5-12.)は、まさにこのモンクとの演奏経験を跳躍台として完成したアルバムであり、その後のコルトレーン独自の演奏スタイルとなる音律を展開している。その演奏スタイルは、シェーンベルクの十二音技との関連も想わせるようにして、一音一音ごとに調性変化(コードチェンジ)を繰り返しつつ途切れることのないアドリブへと発展し、コルトレーンの精神性としての美意識と肉体性としての躍動力を体現する音楽的律動となる。  コルトレーンの音楽的律動としての振幅と深さは、1961年11月のヴィレッジ・ヴァンガードでのライブ演奏で、より大きく豊かな高みへと上り詰めて行く。1997年に発表された『The Complete 1961 Village Vanguard Recordings』(Impulse)により、その感動的な演奏を聴くことができる。  このライブ演奏で特筆すべきは、マッコイ・タイナー(p)/ジミー・ギャリソン(b)/エルビン・ジョーンズ(ds)とのカルテット演奏がひとつの頂点を見せていることと共に、一人屹立するアドリブを展開するエリック・ドルフィー(as&bcl)に触発されるコルトレーン自身の変容と深化だ。  このヴィレッジ・ヴァンガードでのライブあたりから、コルトレーンが表現し体現する演奏に、錯乱する音律としての渾沌(カオス)、そして、その渾沌の中から求道する音律としての浄化(カタルシス)が聴こえてくる。この渾沌と浄化としての音律は、マッコイ・タイナー(p)/ジミー・ギャリソン(b)/エルビン・ジョーンズ(ds)とのカルテット演奏では収まり切れず、それ以後、ファラオ・サンダーズ/アリス・マクロード(コルトレーン)/ジミー・ギャリソン/ラシード・アリを主としたメンバーにより、凝縮力と持続性、求道心と精神性、交感と高揚に溢れる演奏が展開されていく。  1975年に発表されたラシード・アリとのデュオアルバム『Interstellar Space』(Impulse/1967.2.)は、そうした渾沌と浄化としての音律が高い完成度で表現されている作品だ。地球の内なる鼓動のごとくパルスとして打たれるラシード・アリのドラムスと交響しつつ、末期癌を患っていたコルトレーンのテナー(+bells)が、宇宙の内部に潜む自らの魂に届けとばかりに、時には強靭に螺旋をうねりながら、時には静謐に円弧を描きながら鳴動している。  2001年に発表された『The Olatunji Concert』(Impulse)は、亡くなる3ヶ月前の1967年4月に行われたコルトレーン最後のライブで貴重な記録(「Ogunde」と「My Favorite Things」の2曲収録)である。しかし、発売を前提としていない録音で、多くの音は割れて歪み、ソロ以外のジミー・ギャリソンのベースなどはほとんど聴き取れなかったりで、普通なら発売できるような音質ではない。  しかし、ここでの演奏は、観客も含めて途方もなく熱く燃えている。圧倒的なメッセージとして伝わるこのパワーの源は、この演奏がオラトゥンジ(Olatunji)アフリカ文化センターのこけら落とし演奏であり、当時のアメリカにおける「公民権運動」とそれに続く「ブラック・アート・ムーヴメント」が背景にあり、そして、こうした黒人の全人間的な解放と自立に強い共感と参加の意志を示すコルトレーン自身の迫力だろう。  この『The Olatunji Concert』は、その収録音質からすると、一般的な商品価値は高くはないだろう。しかし、その圧倒的なパワーによる音律は、耳で聴くと共に心身全体で受けとめた時、歴史的とでも言い得る豊かな内実をもって迫るものだ。ラシードのドラムスは絶えることなく緊迫したリズムを刻み、ファラオのテナーは希求するように咆哮し、アリスの弾くピアノのタッチは、パートナーの死を予感しているかのように、いつになく切実な力を秘める。  そして、2曲目「My Favorite Things」でのコルトレーンのソプラノサックスは、あの有名な原曲のフレーズをほとんど留めることなく、自由自在に疾駆する官能的で躍動感溢れる音の奔流となって律動する。このライブでは、「死を前にした演奏」などという後追いの感傷や身勝手な思惑などを超えて、本当に鬼気迫る特筆すべき演奏が生まれたのだ。  エリック・ドルフィーやアルバート・アイラーなど、いわゆるJAZZという音楽を通して、渾沌と浄化としての音律を表現している演奏家は他にも何人かいるが、やはり私にとってコルトレーンの演奏は、その音楽的律動により “自我” を揺さぶり “霊性” へと導くかけがえのない存在だ。  そうした音楽的律動の中に生きるコルトレーンに対して来日公演時(1966.7.)に行われたインタビューでは、何事も一般化・概念化しようとする日本の評論家や学生からの的外れの質問が相次ぎ、困惑しつつも辛抱強く答えようとするコルトレーンの様子が印象的なものだ。とは言え、このインタビューにおいて、コルトレーンはいくつか興味深い発言をしている。そのひとつが、「あなたの音楽のテーマとは何でしょうか」という質問に対する次の言葉である。  「人がこの世に生まれたのは、成長して、完全なる・・最良の善に近づくためだと思います。少なくとも、私はそうありたいと思っている。これは私の信念です。人は皆、最良の善にできるだけ近づく努力をするものだと。そしてそこを目指し、そこへ到達できたなら、それはホーンの音となって表れるでしょう。」〜『ジョン・コルトレーン インタウューズ』(クリス・デヴィート著、シンコーミュージック・エンタテイメント刊)より抜粋  一般的には、この「善」に言及するコルトレーンの生き方や音楽的態度について触れることが多いようだ。しかし私は、このこと以上に、他の質問に対する答えでも示しているように、彼が「個人」として「信念」として、善を語り音楽を表現しようする向き合い方に強く惹かれる。  コルトレーンにとって重要なことは、インタビューの質問者が拘っているようなJAZZや宗教や政治に関する世間的な態度表明ではなく、個的な存在者としての固有の音楽表現のあり方であり、さらに、その個的表現(=自己表象・自我意識)を渾沌のるつぼで溶かし浄化することで開示される “霊性” としての「善」なのだ。

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