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シューベルト〜深淵を奏でる後期ピアノソナタ


 クラッシック音楽のいわゆる古典的・典型的なシンフォニーを聴くと、多くの場合、予想通りに流れる曲調と決まりきった身振りを目の当たりにして、そのマンネリズムとセンチメンタリズムによる徒労感で一杯になる。  そのようにして、クラッシック音楽の良き愛好家でもないし、真っ当な鑑賞者でもない私だが、ある特定の作曲家による特定の楽器による曲目、そして、特定の奏者による演奏については偏愛的傾向にある。その偏愛は、シューベルト(Franz Schubert)のピアノソナタ、中でも「後期の3つのソナタ(D.958、D.959、D.960)」に集中する。  シューベルトの楽曲に惚れ始めたのは、もう20数年前のピアノ伴奏による独唱曲の演奏会だった。曲目や歌手・伴奏ピアニストの記憶は全くないが、簡明ながらも予想外に展開していく美しい曲調に惹かれたことが、皮膚感覚のようにして今でも残っている。ただ、その当時の私は絵画的な芸術表現にどっぷり漬かっていたこともあり、シューベルトへの関心はそのまま一旦途切れた。  2005年、何かのきっかけでアファナシエフ(Valery Afanassiev)のピアノ演奏によるシューベルトを聴いた(この時の演奏はCDとして若林工房から販売)。曲目は「3つのピアノ曲D.946」と「ピアノソナタD.959(No.20)」(アンコールでショパンの「マズルカ op.67No.4」)。ここから、シューベルのピアノソナタ、とりわけ、「後期の3つのソナタ(D.958、D.959、D.960)」への、今の私の偏愛が始まった。  シューベルト「後期の3つのソナタ」が魅力的なのは、まずは、自分の感傷に溺れるような決まりきった身振りを見せない曲調にある。そして、その曲調の持つ神秘的な優美さは、湖底に沈む自らの身体を覗き見るがごとく幽微にして深淵な世界となる。この「3つのソナタ」からは、シューベルトという実在者の理念・感情を超えた、もっと存在の深淵からの遠い呼び声が聴こえる。  ベートーヴェンの後期ピアノソナタ(Op109、Op110、Op111)にも偏愛を寄せる私だが、シューベルト「後期の3つのソナタ」には、ベートーヴェンの後期ピアノソナタには無いものがある。それは、自己の理念的な判断や感情的な吐露の中断・停止であり、自我としての現世的な進歩や解決の断念・諦念とでも言い得るものである。  自宅オーディオによる再生でシューベルト「後期の3つのソナタ」を聴くとき、その時空は異界となり、私の心魂は宇宙に彷徨う。そうしばしば聴くことはできないし、決して昼間にBGMとして聴いてはいけない、深夜に瞑想として聴く曲だ。そして、演奏は、先に触れたアファナシエフ(Valery Afanassiev)、あるいは、リヒテル(Sviatoslav Richter)が良い。

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