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奈良原一高〜「王国」写真展


 国立近代美術館開催(2014.11.18~2015.3.1)の奈良原一高の写真展「王国 (Domains)」を見た。この「王国-Domains」(1956-1958年 撮影)シリーズは、「人間の土地」(1954-1957年 撮影)シリーズと並んで、その鮮烈且つ画期的な写真表現により、戦後日本の写真界に大きな衝撃と共に登場してきた奈良原氏初期の作品シリーズである。

 今回の「王国-Domains」写真展は、1978年発表の写真集における2部構成に基づいており、第1部が「沈黙の園」と題する北海道のトラピスト修道院を舞台とした作品、第2部が「壁の中」と題する和歌山県の女性刑務所を舞台とした作品である。私は、この写真展で初めて、「王国-Domains」シリーズのゼラチンシルバープリント作品を見たが、一見静かな佇まいの作品群なのだが、ほんの一瞬の注視により、真空状態における吸引力のような圧倒的な力で、その写真世界に引き込まれてしまった。

 奈良原一高自身が「Domainsとは精神の領域を指す」と語っているように、奈良原氏がここで写し撮っているのは、「沈黙の園」では信仰上の選択により “隔離された領域” で暮らす人々の精神(心魂)の動きや気配であり、「壁の中」は法律上の強制により “隔離された領域” で暮らす人々の精神(心魂)の動きや気配である。とりわけ、信仰上の選択により “隔離された領域” で暮らす「沈黙の園」における作品群に、私は “「白黒写真」〜銀を撮ること” で触れた「銀の光」の世界を感受した。

 奈良原氏の作品を含め、白黒写真を集めた作品集が数多く出版されているが、実はあまり私は見ることがない。というか、積極的に見ようという気になれない。どうも、出版されている写真集だと、これぞという白黒写真でも、私が期待するような「銀の光」が見えるようで見えてこないのである。白黒写真に関する最近の印刷技術については不明な私だが、 “生” のゼラチンシルバープリントでないと、白黒写真の持つディテールやテクスチャーを見ることが難しいのだ。

 とは言え、この奈良原一高の「王国-Domains」写真展を契機に、奈良原氏の出版写真集を15冊ほどまとめて見た(こういう時、地域の図書館はたいそう有り難い存在)。やはり、印刷された白黒写真だとなかなか本来のディテールやテクスチャーは見えてこないのだが、それでも『スペイン・偉大なる午後』(1969年、求龍堂刊)・『ヴェネチアの夜』(1985年、岩波書店刊)・『Tokyo、the'50s』(1996年、モール刊 / 1950年代撮影)などの写真集からは、心象としてかなり伝わるものがあり、「銀の光」を感受することもあった。それは、このような写真集が私好みの対象を捉えた作品集だということにも拠ると思うが、やはり奈良原氏の撮る写真が持つ力なのだろう。

 「ヴェネツィアには楽園の面影がある。楽園のイメージには永遠の生と永遠の死が住みついているのだが、この街もまた、生きる歓びとと共に死の甘美な気配がその横顔を彫り深く描いている。」と、『ヴェネチアの夜』に奈良原氏が記していた。私の言う白黒写真での「銀の光」とは、このような「楽園」の気配と通底するものであり、錬金術的な世界なのかもしれない。

 ところで、今回の写真展では、奈良原氏の「人間の土地」シリーズと「ブロードウェイ」(1973-1974年 撮影)シリーズのゼラチンシルバープリント作品の一部も同時に見ることができた。「人間の土地」シリーズは、「王国」や「無国籍地」(1954-1956年 撮影)シリーズと並んで、畏怖と共に私の心魂に響く初期の作品群である。

 魚眼レンズを使った写真4枚からなるコラージュ作品である「ブロードウェイ」シリーズは、私にとっては写真技法的な面が目につき過ぎ、写真表現そのものとしての深みを感じることができなかった。そうした “写真技法の過剰” による心象の希薄化は、写真集『HEAVEN [天] 』(2002年年、クレオ刊)にも同様に感じてしまう。

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