ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』[16]〜​抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路

06.29.2020

[社会有機体三分節化をめぐって]から

 

思想の迷路とジャーナリズムのモラル

 

《5》抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路

 

 ここの冒頭でシュタイナーは、当時のドイツ社会民主党の理論的指導者カール・カウツキー(Karl Johann Kautsky/1854-1938/旧オーストリア帝国出身)が『いかにして世界大戦は生じたのか』という論考において「資本主義というのは抽象の産物以外の何ものでもなく、それは数多くの個別現象の観察を通して意識の中に作り上げられるものでしかないのだから。・・抽象的な産物は理論的に克服することができる。しかし実践的にそうすることは不可能である。」と記していることに触れている。

 

 その上でシュタイナーは……【社会有機体を三分節化の方向へ駆り立てる衝動にとっての最大の妨害者は、抽象化に根を下ろす党派的教条主義である。(中略)もちろん人生を観察し形成する上で、抽象化が不必要だと言うのではない。しかし大切なのは、抽象化する際の精神の在り方である。われわれは、抽象化するとき、「特定の社会機能を担った制度や人間」へのまなざしを失ってはならない。抽象化は人生を理解するための道具でありえても、実生活の中の働きを阻止するものであってはならない。】(p164-p165)……と述べる。

 

 すなわち、シュタイナーは、カウツキーの「資本主義というのは抽象の産物・・抽象的な産物は理論的に克服することができる。しかし実践的にそうすることは不可能」との言葉に含み込まれている重要な意味として(カウツキー自身が明確に理解しているとは言えないにしても)、単に資本主義社会の実践的克服に向けた課題を提起しているわけではなく、思想という概念的思考による抽象化そのものが自然・社会・世界における具体的な関係性(カウツキーの言う「数多くの個別現象」)への「まなざし」を捨象した非現実的な思想的迷路に陥る危うさを指摘しているのだ。

 

 こうしたシュタイナーの指摘に改めて思い起こすのは、先に《マルクス主義における「観念としての唯物主義」》で触れた……【宗教、家族、国家、法律、道徳、科学、芸術等々は、生産の特殊なあり方にすぎず、生産の一般的法則に服する】(マルクス『経済学・哲学草稿(1844)』(1964/岩波文庫、「第三草稿 私有財産と共産主義」p132)……とのマルクスの言葉に機械的に依拠して「上部構造としての精神活動は下部構造としての経済活動に規定される」、あるいは、《​近代教育制度における「教化としての唯物主義」》で触れた近代の国家主義的教育観に幻惑されて「教育とは社会に有用な人材育成である」などとする安直なドグマ(教条主義)であり、そうした思考は非現実的な〈抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉へと転落している。

 

 石牟礼道子が……【もっともやわらかな情念の世界に生まれ育ち、他にむいて、ひけらかして語る文化的用語を持たず、いかなる情報社会にも深層においては無縁に暮し、腐りはてていることを伝統的純血と思いこんでいるスペシャルな階級にもかつて所属したことのない生民たちがほろびるのである。そこには、退化しきった活字メディアなどへの信仰は歴代にわたって存在せず、次なる世紀を育くむ〈言霊〉のるつぼが、静かに湧いていた。】〔『苦海浄土・全3部』(藤原書店/2016)p350-p351〕……と語るような「ひけらかして語る文化的用語」「退化しきった活字メディア」とは、事実として「生民たち」の心魂に湧出する「言霊のるつぼ」を切り捨てて、〈抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉が跋扈する現代的な情報化社会の危機的様相そのものだ。

 

 昨年(2019年)12月にアフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲が……【極言すれば、私たちの「技術文明」そのものが、自然との隔壁を作る巨大な営みである。時間や自然現象さえ支配下に置けるような錯覚の中で私たちは暮らしている。かつて知識や情報がこれほど楽に入手でき、これほど素早く移動できる時代はなかった。一昔前の状態を思うと隔世の感がある。だが、知識が増せば利口になるとは限らない。情報伝達や交通手段が発達すればするほど、どうでもよいことに振り回され、不自然な動きが増すように思われて仕方がない。】〔『天、共に在り』(NHK出版/2013)p241-p242〕……と語るような「時間や自然現象さえ支配下に置けるような錯覚」というのも、現代的な情報化社会における〈抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉への埋没に他ならない。

 

 現下の「コロナパンデミック」に直面する中で唱えられる「自粛」「ソーシャルディスタンス」「新しい生活様式」といった〝合言葉〟の内にも、うっかりすると〝コロナの不安・恐怖〟や〝経済の再開・回復〟に煽られるようにして抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉へと誘引される集団的な抑圧が潜んでいる。

 私たちの命と健康を維持するために、コロナ禍における必要不可欠な「自粛」「ソーシャルディスタンス」「新しい生活様式」のあり方については、私たちの共通理解を深めつつ実践すべきだ。しかし、個人的にも社会的にも命と健康を守るために「三密」を避けたくても避けられない人々が存在している事実、人として必然的に持ち合わせている社会性や関係性、そして、経済的・社会的な支援・援助の必要性などについて目を向けることなく……感染者家族や医療関係者への差別・偏見、あるいは、戦中の「非国民」扱いを想起させる「自粛警察」の出現などに象徴されるごとく……「自粛」「ソーシャルディスタンス」「新しい生活様式」がドグマ化(教条主義化)された道徳規範として〝一人歩き〟することに危惧を感じる。[註]

 

[註]「コロナパンデミック」が私たちの社会的なあり方に投げかけている課題……「ウィズ・コロナ(コロナとの共存)」とも言われる社会のあり方……を考えるにあたっては、先のブログ《コロナパンデミックの〈出口戦略〉〜社会構造の根本的変革に向けて》で触れたように〈生態地域主義〉や〈エコロジカルディテスタンス〉といった社会構造の根本的変革こそを志向すべきである。
 内山節が……【現在よく語られている感染防止か経済かという議論は、現実に問われている問題の核心を突いていない。大事なことは直接、間接に結ばれている社会の維持であり、感染防止も経済も核心的な目的ではないのである。・・社会を維持するには、いろいろなことに配慮しながらも、人々の営みを守り合うことが必要だ。】(東京新聞/2020.6.28 朝刊「時代を読む」より抜粋)……と語るように、いつのまにか
「感染防止」や「経済成長」が目的そのものとされて抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉に落ち込んでいるのだ。

 また、福岡伸一による……【長い時間軸を持って、リスクを受容しつつウイルスとの動的平衡をめざすしかない。 ゆえに、私は、ウイルスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する。それは自身の動的な生命を、つまりもっとも端的なピュシスを、決定的に損なってしまうことにつながる。】(朝日新聞デジタル/2020.6.17 「生命の必然、ロゴスでは抵抗できない」より抜粋)……との発言は、今のコロナ禍ではいささか衝撃的(全文をきちんと読み込まないと〝ウィルス感染症に対する弱者切り捨て〟と誤解されかねない)内容であるが、私自身が陥っている抽象化・情報化されたドグマによる思想的迷路〉を気付かせてくれた。

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