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R・シュタイナー『社会問題の核心』[11]〜賃金から利益配分としての労働へ


 [第3章 資本主義の本質 − 資本・労働]から-2

《2》分業の本質としての利他主義

 「分業」というものを「生産の合理化・効率化」という観点だけから見ていた私にとって、本章における「分業」に関するシュタイナーの論考は「分業」に関する新しい見方と可能性を提示してくれた。

 それは、近代資本主義社会における制度としての「分業」概念を越えて、人間社会(三分節化された社会有機体)における本質的な「分業」の意味を考えさせてくれる指摘である。

 例えば……【人びとはただ、他の人びとのために働き、そして他の人びとを自分のために働かせる。独りで働くこともできないし、独りで暮すこともできない。しかしそのような分業の本質に矛盾した諸制度がある。それは、個人が自分の社会的地位を利用して働き、そしてその成果を財産として残すことのできる制度である。--(中略)--しかし分業は、個人が社会有機体の中でその有機体全体の状況に従って生きることを求めている。それは経済的に利己主義を排除している。】(「分業の本質」p102)……との言葉。

 「分業」の本質(三分節化された社会有機体における「分業」)は、階級的特権による財産専有や自給自足的な経済活動が内包する“利己主義”とは異質であり、『経済学講座』(2010/ちくま学芸文庫刊所収、「社会的営為として組み込まれる労働 分業−利他主義−隠された事実」p59)で言うように、「他者のために働く」「社会的な必然性から働く」という“利他主義”にあることを指摘している。

 シュタイナーは、こうした「分業」についての本質的洞察から、次のように賃金労働は自給自足者として経済的な意味での利己主義に捕われていると指摘する。

【通常の意味での賃金労働者は、今日なお自給自足者です。賃金労働者は、自分の需要に相当する分だけを社会に提供します。--(中略)--自給自足とは、「収入のために(自分のために)働く」ということです。--(中略)--普通の賃金労働者は、「価値は何と交換されるのか」ということについて熟慮しないので、通常このことに気づきません。】『経済学講座』(同上、p59)

 賃金労働の問題として「剰余労働」のみに焦点があてられがちなのだが(マルクス経済学における論考等)、シュタイナーは「分業」という経済活動における社会的共同性を問題にすることで、本質的には利他主義としての労働が「収入のため」(=生計維持)の利己主義としての労働へと歪められた賃金労働の本質的な矛盾を洞察している。

《4》賃金から利益配分としての労働へ

 こうした利己主義(=生計維持)としての労働へと歪められた賃金労働から、利他主義(社会的必然性)としての労働への本質的変容の可能性と必要性を見通すからこそ……【社会有機体を三つに分節化すると、これまでの国家形態の中には存在しない諸制度を生じさせることができる。そしてそのような諸制度の内部では、階級闘争も存在しなくなる。なぜなら階級闘争は、賃金を経済循環の中に組み入れることによって生じるのだから。】(「労働と収入」p104)……と本章でシュタイナーは語る。

 本著全体を読み通すならば、シュタイナーは……市場経済(=経済循環)に組み込まれた賃金労働(=労働力として人格そのものを商品化する経済システム)の質的転換について、生産手段の社会化・共有化の問題ではなく、利己主義(生計維持)から利他主義(社会的必然性)への本質的変容の問題……として捉えていると言えよう。

 そして、「収入のため」(=生計維持)に働くという利己主義的な経済システムからの解放は、市場経済のもとでの競争的な労働から、三分節化された社会有機体のもとでの協同的な労働への質的転換によってもたらされるのだ。その質的転換は、経営者による評価・査定に基づく賃金払いから、経営者と労働者の恊働的契約に基づく利益配分への変化として具現化される。

 さらに、『経済学講座』(前掲書、「国民経済学の概念訂正 剰余価値」p148-p149)における……【経営者に売られる「労働の成果」は、労働者が社会的に不利益な状態にあるために、経営者によって転売されるときよりも過小評価され、そこで経営者の利益が捻出されているのです。--(中略)--経営者と労働者の関係については、市場に行って商品を買う者たちと同じことが言えます。--(中略)--国民経済的に見ると、経営者と賃金労働者の間に存在するものは一種の市場なのです。】……とのシュタイナーの言葉は、極めて現代的な課題を指摘している。

 今の日本の経済界・安倍政権の目指す「成果主義に基づく裁量労働」の導入・拡大は、〈経営者と労働者の恊働的契約に基づく利益配分〉とは相反するものであり、労働成果を商品として市場経済・競争主義の中に丸裸で投げ込むことであり、〈経営者による評価・査定に基づく賃金払い〉をより強化する〈市場経済・競争主義に基づく賃金払い〉に他ならない……つまり、賃金や労働時間を裁量するのは、対等な恊働的契約に基づく経営者と労働者ではなく、より安価な商品としての労働力を要求する市場経済・競争主義ということだ。

さらに付言すれば、「収入のため」に働くという自給自足的・利己主義的な賃金労働から私たちを解放し、[労働成果が〈経営者と労働者の恊働的契約に基づく利益配分〉として具現化]するためには、「生計維持」が「ベーシックインカム」として社会的・共同的に保障される必要があるのである。

〜続く〜

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