ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』[6]〜プロレタリアの暗示にかけられた階級意識

06.01.2017

 [第1章 現代社会の根本問題]から-3

 

《3》プロレタリアの暗示にかけられた階級意識

 

 プロレタリアに組み込まれた唯物的思考の幻惑は、その「階級意識」にも覆い被さっている。プロレタリアとしての「階級意識」は、自身が属する社会階級としての固有な自意識として捉えがちだが、その「階級意識」自体がブルジョア・イデオロギーの枠組みに取り込まれている。シュタイナーは次のように述べる。

 

【現在、プロレタリアは階級意識について語ることで、魂の原動力に触れたと思っている。しかし本当は、そのプロレタリア自身が資本主義的経済秩序の中に組み込まれた魂の要求に応えて、人間の尊厳の意識を与えてくれるような精神生活を求めている。(中略)プロレタリアはこのような意識を求めてきた。そしてそれが見出せなかったので、経済生活から生まれた階級意識でそれを代償させてきた。階級意識の眼は、まるで強力な暗示にかけられたかのように、経済生活だけに向けられてきた。】(「社会有機体を生かす力」p24)

 

 

 唯物的思考の幻惑としての「階級意識」は、プロレタリアにおける本来の精神生活について、その人間としての尊厳の意識を経済生活のもとに代償させ歪めている。精神生活の代償としての「階級意識」に基づく社会変革は、近代プロレタリア運動の矛盾として、生産手段の私的所有の共同化・社会化という非精神的な経済生活のあり方のみに眼を向けている。

 

 しかし、生産手段の共同化・社会化は、所有形態の変革ではあっても、所有“意識”という人としての精神生活のあり方そのものを問うものではない。私的所有にせよ社会的所有にせよ生産手段の所有形態のあり方を問う際は、所有“意識”という精神生活(=心魂)のあり方にまで思いを巡らさなければ無力な空論となる。マックス・シュティルナーによる次のような言葉は、こうした所有“意識”という精神生活のあり方を問うている。

 

【人間が、所有にたいする敬意を失なうところまで到達するとき、各人は所有をもつこととなるのだ。奴隸が主人をもはや主人として尊重しなくなるとたんに、すべての奴隸が自由な人間となるのと同ようにだ。そのとき、この問題に関してもまた、連合が個人の資材を乗積させ、おびやかされている所有を確実なものとするだろう。共産主義者の意見によれば、共同体が所有者であるべし、とされる。だがそれは反対で私こそが所有者なのであり、私は私の所有について他者と了解をつけあうだけなのだ。共同体が私にたいして正しく振舞わないならば、私は共同体に対立して私の所有を防衛する。私は所有者ではあるがしかし、所有は神聖ではないのだ。】(『唯一者とその所有 下(1844)』(片岡訳/1968 /現代思潮社刊)所収、「所有人」 p156-p157)

 

 このシュティルナーの言葉は、単に観念論として退けるべきではない。「所有は神聖ではない」として、所有という経済生活(=唯物的思考)からの「精神生活の自由」を表明しているのだ。それ故に、「私は私の所有について他者と了解をつけあうだけなのだ」と言えるのであり、この立場は、私にはシュタイナーの社会有機体三分節化の考え方と相通じるように思われる。

 

 

〜続く〜

 

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