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R・シュタイナー『社会問題の核心』[4]〜プロレタリアにおける純人間的な精神衝動


[第1章 現代社会の根本問題]から-1

《1》プロレタリアの諸要求に秘められた純人間的な精神衝動

 シュタイナーは、その同時代、ロシア革命として歴史社会に勃興し、そのイデオロギー的覇権を増すこととなった社会主義(統制経済)に対しても、近代資本主義社会(市場経済)に対すると同様、その本質的な問題性を指摘しつつ鋭く批判している。

 この社会主義イデオロギーへの根本的批判が為された背景として、シュタイナー自らが、当時のドイツ社会のプロレタリアが置かれていた社会的実情と人間的状況に身を寄せることで、そのプロレタリアとの真の連携・連帯を具体的に試みていたことを忘れてはならない。

 シュタイナーは、36歳になる1897年、当時の学術都市ワイマールから近代都市ベルリンに移住するが、『若きシュタイナーとその時代』(前掲書)において、彼がその当時のこと振り返って述べた次のような講演記録を読むことができる。

【それから私は一八九七年にワイマールからベルリンへ移りました。時代の推移を外から眺めることのできる環境から出ていったのです。(中略)私は、何年もべルリン労働者教養学校でいろいろの分野の授業をしてきましたが、それを手はじめに、あらゆる種類の社会主義労働者の会合で講演を行ないました。(中略)人々は、先日来私がここで述べているような、歴史認識の問題を学びたいと願っていただけでなく、正しいと信じる事柄を説得力をもって人に語れるょうになりたいとも願っていました。ですからもちろん、あらゆるサークルの中で、あらゆる分野の問題についてのつっこんだ議論が闘わされていました。こういうことも現代の世界史的発展を知るうえで必要なことだったのです。】(「超感覚的世界の獲得」p149-p152)

 ここには、ベルリン移住前のウィーンやワイマールにおける内的・霊的体験を秘めつつ、かつてのアカデミックな世界とは異質なプロレタリアの世界へと自らの生活の場を移し替えて、自由文芸協会/自由演劇協会/ジョルダーノ・ブルーノ同盟/ベルリン労働者学校等で活動し、プロレタリアと共に同時代を共感的・意欲的に生きようとするシュタイナーの姿が伺える。

 さらにシュタイナーは、ドイツ革命・第一次大戦終結の翌年1919年3月に[ドイツ民族と文化世界に訴える]と題するアッピールを発表し、同年4月には「社会有機体三分節化同盟」を設立するとともに、ダイムラー・ベンツ自動車工場やヴァルドルフ=アストリア煙草工場の労働者たちに「三分節化」に関する講演・質疑を行うなど、当時の時代状況に積極果敢に取り組んでいる。[註]

[註]こうしたことからも、シュタイナーが、単に非俗的なオカルティスト・神秘主義者ではなく、その霊的認識を核として同時代を生きる全人的な実生活者であったことが分かる。シュタイナーの“言葉”に「精神性」や「癒し」のみを見出して事足りることは、閉塞的な自己憐憫に留まることであり、学問的な「合理性」や「論理性」を求めるのと同様に虚しいことだ……と、私は改めて思い知る。

こうした当時のプロレタリアが置かれていた社会的実情と人間的状況への深い共感と洞察を通して、シュタイナーは、そのプロレタリアとしての諸要求の内奥に……イデオロギーとして矮小化された観念的な“階級意識”とは異質な……個的且つ普遍的な人としての“精神衝動”を鋭く見抜いたうえ、次のように述べている。

【たしかにプロレタリアの諸要求は、近代技術や近代資本主義の発達過程で生じた。しかしこの事実を洞察しただけでは、この諸要求の中に生きている純人間的な衝動は、何も明らかにならない。そしてこの衝動の中にみずから身をおこうとしない限り、「社会問題」の本当の姿も見えてこない。】(「プロレタリアの要求」p5)

【近代プロレタリアは、本能的、無意識的にも、自分たち以外の諸階級の衝動にもはや従おうとはしない。彼ら自身が特定階級の一員であることを自覚し、自分たちの階級と他の諸階級との関係を、公的な生活においては、自分たちの利害関係にふさわしく利用しようと望んでいる。魂の底流が理解できる人は、「階級意識」という言葉によって、近代技術や近代資本主義のいとなみの下で働く労働階級の社会観、人生観のもっとも決定的な部分に眼を向けるように促される。】(「プロレタリアと共に考える」p6)

 近代資本主義下における「階級意識」として、特殊的・歴史的な意識性に閉じ込められてしまったプロレタリアについて、シュタイナーは……近代ブロレタリアの諸要求や運動の内に秘められた純人間的な精神衝動……をその魂の底流に見出している。こうしたシュタイナー自身の純人間的な共感力と洞察力は、私にとって、『反逆の精神』(2011/平凡社ライブリー)で紹介されている次のような言葉を遺した、シュタイナーと同時代を閃くように生きた大杉栄(1885-1923)の心魂とも響き合うものだ。

【しかし、労働者が人間であるかぎり、労働運動は決してこの生物的要求だけに止まるものではない。労働者といえども、ただ多少楽に食って行けさえすればいい、というのではない。それ以上に、もう少し進んだ、或る人間的要求をもっている。労働運動のこの人間的要素を見ることのできないものには、労働運動の本当の理解はできない。また労働者が自分の要求の中のこの人間的要素をはっきりと自覚しない間は、その労働運動はついに本当の値うちある労働運動に進むことはできない。(中略)繰返していう。労働運動は労働者の自己獲得運動、自主自治的生活獲得運動である。人間運動である。人格運動である。(1919.10)】(「労働運動の精神」 p223-p225)

 プロレタリアの諸要求=労働運動に、純人間的な精神衝動、あるいは、自己獲得という人格運動を見出すシュタイナーと大杉栄の二人の心魂には、「階級意識」というイデオロギー的幻惑を超えた、ましてや、「市場経済による資本の独占」や「統制経済による権力の独占」などとは決して相容れない……人として自由であるべき精神生活への衝動、あるいは、人として自治的であるべき社会生活への欲求……が立ち現れている。

 そして、本著で語られるシュタイナーの次のような言葉を読むと、〈精神の閉塞化/経済の略奪化/政治の暴走化〉……最近では、〈精神の閉塞化〉⇒小中学校道徳教育への評価導入、〈経済の略奪化〉⇒政権による日銀の私物化、〈政治の暴走化〉⇒組織犯罪処罰法改正案(=共謀罪法案)の強行採決 等々……がますます深刻化する今日の危機的状況にありつつも、私自身の内に希望は見えずとも「純人間的な精神衝動」がざわめくようにして芽吹いてくる。

【実際、その人が近代の資本主義的経済秩序の中に組み込まれたとき、その人の魂はそのような精神生活を真剣に求めた。けれども支配階級がイデオロギーとして彼に提供した精神生活によって、彼の魂は空洞化するしかなかった。近代プロレタリアの要求の中には、現在の社会秩序によつては与えられないような、精神生活との新しい関係への憧れが現れている。この憧れが必ず現在の社会運動を規定する力となるに違いない。】(「未来の生き方の思想的基盤」p22-p23)

 このように近代プロレタリアの諸要求の内奥に「新しい精神生活への憧れ」を見出すシュタイナーの姿に触れることは、私にとって、次のように語る宮沢賢治(1896-1933)とも再会するかのようだ。

【おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい/われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった/近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない/自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する】(『宮沢賢治全集-第10巻』(1995/ちくま文庫)所収、「農民芸術概論綱要・序論(1926)」 p18)

 ここまで来てしまうと少々私の“勇み足”のような気もするが、近代プロレタリアの内奥には、まさにこうした宮沢賢治の「純人間的な精神衝動」が秘められている。むろん、私たちにとって容易ならざる地平への歩みなのだが、賢治が言うように「求道 すでに道である」と思いたい。

〜続く〜

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