武満徹〜Bob Dylanの同時代性と共に

10.18.2016

 *武満徹没後20年の演奏*

 

 武満徹の没後20年にあたる今年、「武満徹」の名を冠した複数の演奏会が企画・公演されている。没後10年にあたる2006年当時も同様に複数の演奏会が企画・公演され、私も幾つかの演奏会を聴いたが、没後20年の今年も幾つか演奏会を聴くことにしている。

 

 これまでに聴いたのは、6月25日のトッパンホールでの『ウォーター リンク コスモス』と題して器楽曲を主とする演奏会、及び、10月13日の東京オペラシティコンサートホールでの『オーケストラ・コンサート』と題してオリヴァー・ナッセン指揮による管弦楽曲を主とする演奏会の2つである。

 

 この2つの演奏会を聴くと、没後10年・2006年当時の演奏会とはいささか異なる感慨を抱き、この差異のようなものが、演奏者にとっても、また、私自身にとっても、没後10年と20年の時代の流れを感じさせるものだった。

 

 その10年間の差異の感覚とは、簡潔にいってしまえば、演奏される武満徹の音律が持つ切迫性の強弱として、その音律を奏する者と聴く者の衝動性の深浅として、時代の流れとして私に感受され始めたものだ。

 こうした切迫性の強弱や衝動性の深浅の差異について、武満徹による楽曲の“時代性”として片付けることは容易だ。しかし、どうもそうではなさそうだ。

 
 つまり、この差異の所在については、武満徹の楽曲自体の“時代性”の問題としてではなく、演奏する側や聴く側の“時代性”の問題として考えた方が、今を生きる私たちの心魂と行為の在り方や行く末に沿うものと思えるのだ。

 それは、先の没後20年の2つの演奏会だけでも、私としては、演奏者や演奏のあり方によって、その音律が奏でる切迫性の強弱や衝動性の深浅の差異を聴くからだ。

 

 トッパンホールでの『ウォーター リンク コスモス』において演奏された……雨の樹/ブライス/雨の呪文/ウォーターウェイズ/エクリプス/オリオン/閉じた眼/ビトゥイーン・タイズ……の各曲は、いずれも武満徹の器楽曲を好む私にとって好感の持てる演奏内容であった。

 

 しかし、なぜかしら演奏後の印象が全体的に弱く薄いのだ。どうやら、『ウォーター リンク コスモス』と題した統一的なコンセプトを設定したコンサートでありながら、各楽曲の演奏者による武満徹作品への接し方・迫り方に差異があり、コンサート全体としての音の響きが立ち現れてこなかったのだ。

 

 どうやら結果として、この『ウォーター リンク コスモス』と題するコンサートは、私にとっては、武満徹作品の“懐古”コンサートで終わってしまったようだ。

 聴き手の私の方に問題があったのかもしれないが[註]、没後20年となるこの今、幾人もの器楽奏者が……単なる“懐古”に終わることなく、武満徹作品に対して、今日的な切迫性と衝動性を有する音楽表現を共々に追求すること……の困難さに思い至った。

 

[註]この『ウォーター リンク コスモス』公演は、予定されていた開場時刻が大幅に遅延。やむを得ない事情があったのかもしれないが、遅延理由や開演時刻の変更等について何らアナウンスは無く、開演を前にして私はいささか当惑を感じた。また、広告チラシのような出来のコンサート・プログラム?を有料(一部300円)とした運営方法にも少なからず驚いた。主催者としては経費を押さえたかったのだろうが、音楽コンサートとしての文化的内実を軽視しているようで情けなかった。

 このコンサートの企画制作はトッパンホール自体ではない外部団体によるものだが、こうした実務的なコンサート運営の拙さが当日の私の聴き方を散漫なものにしてしまったのかもしれない。

 

 東京オペラシティコンサートホールでの『オーケストラ・コンサート』での演目は……地平線のドーリア/環礁/テクスチュアズ/グリーン/夢の引用……であり、指揮者はオリヴァー・ナッセン。

 

 この管弦楽曲による『オーケストラ・コンサート』では、器楽曲による『ウォーター リンク コスモス』とは異なる印象を抱いた。それは、武満徹の管弦楽曲と器楽曲との相違としてではなく、武満徹の楽友とも言えるオリヴァー・ナッセンという統括的な指揮者の存在に依拠するものだろう。

 この『オーケストラ・コンサート』では、『ウォーター リンク コスモス』のように統一的なコンセプトを題することはなくとも、オリヴァー・ナッセンという指揮者による武満徹作品への今日的な接し方・迫り方を垣間見ることができた。

 

 とはいえ、今回の『オーケストラ・コンサート』における東京フィルハーモニー交響楽団の演奏は、総じてやや荒削りで、私には音のバランスや統一感が今ひとつ物足りなく聴こえた。[註]

 

[註]この『オーケストラ・コンサート』における私の座席位置は前列2列目の正面やや右側で、演奏者の表情や所作はよく見えて興味深かったが、音源に近すぎて音響的にもやや荒々しく不統一な響きを乗じさせたのかもしれない。

 

 例えば、コンサート最終曲目の「夢の引用」では、その共通理解を得やすい曲想と2人のピアノ奏者(高橋悠治とジュリア・スー)の存在にも助けられて、音のバランスや統一性を取り戻した感があったが、第2部冒頭で演奏された「テクスチュアズ」(ピアノ演奏は高橋悠治)は、やや曲想が複雑で個々の演奏者の共通理解を得難いためか、音だけが先走って有機的な音律としての統一的な質感=肌理にまで織り上げることができなかったようだ。

 

 私は、武満徹没後10年の2006年5月、東京オペラシティコンサートホールにおける『武満徹の宇宙』と題したオーケストラ・コンサートで、同じように東京フィルハーモニー交響楽団と高橋悠治による武満徹の「アステリズム」を聴いている(指揮は高関健)。[註]

 その演奏の印象は今でも残っているが、「テクスチュアズ」と「アステリズム」の曲想は違うにしても……同じく〈ピアノとオーケストラのための〉曲だが、端的な相違として、「アステリズム」のピアノパートの方が音群として際立ち主導的な音律を担う曲想……ピアノの高橋悠治を含めて、もっと溌溂とした緊張感のある響きが聴けたように思う。

 

[註]この演奏は、当時のコンサート全体を録音したCD『武満徹の宇宙』(フォンテック)で聴くことができる。

 

 ここでやはり、武満徹を“懐古”しつつ、没後10年と没後20年における“今”における演奏において生ずる差異を思う。10年という経過は、演奏する側や私たち聴く側にとって、“懐古”だけを肥大化させてしまい、この“今”において武満徹を演奏し聴くことの意味を風化させているのかもしれない。
 

 ただし、今回の『オーケストラ・コンサート』における「環礁」は、緊張と集中と統一のある演奏で、なかなか印象深く聴いた。私には、この曲中の[Poem Ⅰ]と[Poem Ⅱ]に添えられた大岡信の詩[註]にも触発されつつ、地球創世記のイメージが浮かんできたのだ。

 それは、ソプラノを歌ったクレア・ブースの力に負うところが多かったように思う。私にとっては未知のソプラノ歌手(今回が初来日とのこと)で、日本語による詩を歌うのは難しかったようだが、その瞬発力ある発声と緊張を持続させるブレスは、「環礁」に示さている武満徹の音律に寄り添い、この“今”において、真摯に向き合うことの意味を感受させてくれた。

 

[註]コンサート・プログラムより(改行は「/」にて表示)

[Poem Ⅰ]

唇と唇がつくる地平線に/てのひらの熱いことばに/からだとからだの噴火口に/ひとは埋める/いのちと死がだきあっている/魂のシャム双生児を 

 

10月の澄んだ空気に/いのちの流れは死の湖の/なめらかな皮膚となり/人間はひとりひとり/鏡を心臓にもった/夜になる

                     

太陽/空にはりつけられた/球根

 

[Poem Ⅱ]

鳥/こころの火山弾/風の屋根を突き抜ける秋の瞳

 

樹/地球の奥の燃える髪の毛/恋する人の溶ける指さき

 

街/食いちらされた神の食卓/かくれる沈黙

 

人は沈む/深い眠りのトンネルを/花びらのように乱れて流れて

 

ああ でもわたしはひとつの島/太陽が貝の森に射しこむとき/わたしは透明な環礁になる/泡だつ愛の紋章になる

 

 

 *Bob Dylanのノーベル文学賞*

 

 数日前、ボブ・ディランがノーベル文学賞との報道に接した。ボブ・ディランが果たしてきた社会的な影響力も鑑みて、同様にして、大きな社会的影響力の発動としてノーベル文学賞が彼に与えられるのだろう。

 

 しかし、彼の「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」等を歌いたいが為にフォークギターを手にした「新宿西口地下広場世代」の私には、ボブ・ディランという当時の“反体制的”な時代精神を象徴するような存在と社会的・権威的評価の頂点(“反体制的”な志向を示すことはあるにしても)のようなノーベル賞との違和感はどうにも払拭できないでいる。

 

 “ミュージシャンに文学賞”ということ自体に関しては……1980年のスタジオ録音アルバム『Saved』あたりを最後に、もう長いことボブ・ディランの新作を聴いていない(ましてや日本公演も)私だが……かつて、ボブ・ディランの歌詞をひとつの文学的な“テキスト”(=唄として朗読された口承詩)としても読んでいたので、つまらぬジャンル分けに拘らない“粋な計らい”だと思う。

 

 とは言え……〈1960年代の「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」「A Hard Rain's a-Gonna Fall(はげしい雨が降る)」等やThe Band(ザ・バンド)との共演〉=〈ホブ・ディラン〉……という守旧的イメージから離れられない私のような者にとって、彼のノーベル文学賞受賞に対する無邪気な賞賛には、この“今”における表現行為のあり方について無頓着なまま、ボブ・ディランという存在に“懐古“(=癒着)していく様が見え隠れして、どうにも落ち着かない。

 

 今の時点、ノーベル賞事務局はボブ・ディランとの直接的なコンタクトを取れない状態であり、また、受賞決定後のライブ会場において、ボブ・ディランは自らのノーベル文学賞受賞について一言も触れていないとの報道。

 このことを聞き、私は少しほっとしている。こうした事態が続くようなら、ボブ・ディランのファン(だった者)は、今一度、目を覚ますのではないかと……私も含めて。

 

 

『武満徹 - 懐古を超える響として』

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