ジャック・クルシル〜抵抗と慈悲として谺するCREOLIZATION(クレオール化)

03.03.2016

 マルティニーク移民の両親のもとに生まれたジャック・クルシル(Jacques Coursil/1938-、パリ出身)は・・「世界の素材を混合し、今日の人類の諸文化を結合し、変化させる押しとどめ難いプロセス」(エドゥアール・グリッサン『全−世界論(TRAITÉ DU TOUT-MONDE)/2000年、みすず書房刊』所収〈世界の叫び〉より)・・としてのcreolization(クレオール化)の中で生きる音楽家(1960年代にはニューヨーク・ジャズシーンにおいてアフロ・フレンチ・トランペッターと称されてサニー・マレイ、アルバート・アイラー、アンソニー・ブラクストンらとも共演)にして、言語学・数理論理学の研究者。

 

 このジャック・クルシルによる最近の演奏(トランペット)をCDで聴いた。『CLAMEURS』(Recorded : 2006)/『TRAILS OF TEARS』(Recorded : 2008-2009 )/『FREE JAZZ ART』(Recorded : 2011)の3枚だが、このうち『CLAMEURS』と『TRAILS OF TEARS』は、繊細且つ強靭な音楽性とともに、思索的にも深い感銘を受ける演奏だ(いずれのCDも国内盤は未発売だがAmazon・HMV等で入手可能)。

 

 

 最新作の『FREE JAZZ ART』は。。ベースのアラン・シルバ(Alan Silva/1939-)とのデュオ演奏で、フリージャズ・トランぺッターのビル・ディクソン(Bill Dixon/1925-2010)へのオマージュ・アルバム的な作品。アルバム・タイトルどおりFREEな即興的演奏であるが、今回聴いた3枚のCDの中では、最もオーソドックスなJAZZとも言える内容。1960-70年代のJAZZを聴いてきた私には懐かしい印象なのだが、後述する『CLAMEURS』や『TRAILS OF TEARS』と聴き比べると、やや単調というか冗長な印象。

 

 

 『CLAMEURS』は。。モンショアシ(Monchoachi/1949-、)、フランツ・ファノン(Frantz Omar Fanon/1925-1961)、エドゥアール・グリッサン(Édouard Glissant/1928−2011)という、いずれもマルティニーク出身の作家・思想家らによるカリブ海域列島を端緒とするcreolization(クレオール化)の様相を表現する言葉、そして、6世紀アラビアのアンタル(アンタラ・イブン・シャッダード、Antarah ibn Shaddad/525-615〈608?〉)による言葉をモティーフとする。

 このCDは・・「QUATRE ORATORIOS POUR TROMPETTE ET VOIX/FOUR ORATORIOS FOR TRUMPET AND VOICE(トランペットと声のための4つのオラトリオ)」・・とのサブタイトルが付されており、静かな囁きと呻きとして谺するジャック・クルシルのトランペット演奏と朗唱を中心に、ベース・パーカッション・コーラスの演奏を重ね合わせている濃密な“音楽作品”だ。

 

 この『CLAMEURS』でオラトリオとして朗唱される4つ(4人)の言葉(詩)について、その概略を演奏順に紹介しよう。私なりに理解し心に留まった一節(1.3.はCD添付のフランス語訳、2.4.は朗唱されている原文のフランス語)と日本語訳[1.3.4.は私的意訳、2.は『黒い皮膚・白い仮面/1998、みすず書房刊』の訳]も付記する−−−−

 

1. アルバム・タイトルでもあるモンショアシの「Wélélé Nou/Nos Clameurs/Our Clamors(我々の叫び)]というクレオール語による詩。・・

・・「jusqu’au bout de notre propre mort même(我ら自身が死に果てるまで)」「Détresse et envie de renaître(苦悩と生まれ変わりの望み)」 

 

2. アルジェリア民族解放戦線に参加した思想家・精神科医であるフランツ・ファノンの『Peau Noire , Masques Blanc/Black Skin ,White Masks(黒い皮膚、白い仮面)』からのフランス語による言葉。

・・「Pas de monde blanc, pas d'éthique blanche, pas d'intelligence blanche.(白い世界はない、白い倫理はない。ましてや白い知性はない)」「 Il y a de part et d’autre du monde des humains qui cherchent. (世界のいたるところに探し求めている人間たちがいる)」

 

3. 私にはほとんど未知のアンタル(Antarah) 〜 ジャック・クルシル自身が書いたと思われるCDジャッケットの解説では[Antar]と表記した上で・・「a great poet and legendary hero of the pre-Islamic period, was a black slave "with a split lip".」・・とある。なお、リムスキー=コルサコフの交響組曲の標題ともなっているようだが私は未聴 〜 によるアラビア語の詩。

・・「Ignorants, ils blâment le noir de ma peau(無知により、皮膚の黒さがとがめられる)」「Or sans noir l’aube ne paraît [pas] dans la nuit(だが、闇夜の黒さなしに夜明けは現れないのだ)」

 

4. エドゥアール・グリッサンの『L'Archipel Des Grands Chaos/The Great Chaos Archipelago(大きなカオスにさらされた列島)』からのフランス語による詩。

・・「Les Grands chaos s’en sont venus(大きなカオスが訪れる)」「Il n’est tempêtes que de sang(血の流れぬ嵐はないほどに)」「La race blanche des frégates(軍艦に乗った白人だ)」

 

 これらの朗唱されている言葉の意味は、私にはごく一部のフランス語を除いてほとんど聴き取れない。朗唱テキストの原文・仏文・英文はCD付属のpdfファイルとして見ることが出来るが、どこかで国内盤を出すとともに、その際に朗唱テキストの日本語訳と解説を今福龍太氏あたりが担当・掲載して欲しいのものだ(あまりニーズはないだろうが、それが“文化”というものだから)。

 しかし、この『CLAMEURS』では、“音楽作品”としての重要なモティーフとなる朗唱の意味がほとんど聴き取れないにもかかわらず、そうした言葉たちが、ジャック・クルシルらの演奏とともに、口承される言霊となって鬼気迫るほどに響くのだ。

 

 『CLAMEURS』のジャッケットに記されたジャック・クルシルの言葉・・「The slave's cry, the shout of the oppressed, strangles in his throat. If he cries out, he's beaten, dead – the shout is a free man's privilege. In the language of poets, the tight cry has been transformed into the written word.」・・のごとく、「the written word(書かれたコトバ)」の中に置き換えられた泣き声」が聴こえ、また・・「The four oratorios for trumpet and voice that make up CLAMEURS restore the world-cry of these poets in their own tongues, Creole, French and Arabic. But this clamour is neither a lament nor hatred.」「"In this world where things hurt," wrote Frantz Fanon, "truth has no need to be flung in men's faces." It has to be sought out and sung: its place is in music.」・・とあるように、「悲嘆でもなく憎悪でもない叫び声」として、「音楽の中に真実の声」となった[4つのオラトリオ]が私の心魂に滲み込んでくる。

 

 

 『TRAILS OF TEARS』では。。ジャック・クルシルの他にベースのアラン・シルバやドラムスのサニー・マレイ(Sunny Murray/1936-)など8名が参加している。強い音楽的イメージとともに、『CLAMEURS』と同様、深い思想的イメージをも喚起する叙情的且つ叙事的な演奏が聴ける。

 

 このCDジャッケットに記されたジャック・クルシル自身の言葉・・「Trails of Tears is a poem in music written in seven titles that run down long trails of tears, the traces of the forced exoduses in world history. I must stress here the last act in the wars of resistance fought by the peoples of North America, in counterpart to the African slave-trade.」・・にあるように、この『TRAILS OF TEARS』は〜〈1883年にアメリカ合衆国政府がチェロキー族を本来の居住地である大陸東部(ジョージア)から居留地(オクラホマ)へと根こそぎで「強制移動」させた〉〜北米大陸における植民地支配のもと、暴力的に強いられた「exoduses(エクソダス)」をテーマとしている。

 

 『TRAILS OF TEARS』にジャック・クルシルが作曲・収録した7曲について、彼自身が次のように付記している・・「Ⅰ - Nunna Daul Suny(The trail where we wept)summarizes the tears of the conquered people who were deported, tears without waters, dry-eyed and in silence./Ⅱ - Tagaloo, Georgia is the name of a place lost forever in this uprooting with no return, the end of a world./Ⅲ - Tahlequah, Oklahoma is the end of a voyage for those who survived./Ⅳ&Ⅴ - Free Jazz Art, the Removal Act Ⅰ&Ⅱ relates what remains of the revolt against the greatest conquering enterprise in history, the colonial adventure, the Wars of the Whole World. /Ⅵ&Ⅶ - are the African response to the exodus of the Indians. 」・・こうした言葉からも、ジャック・クルシルがこのCDに込めた強い想いを知ることができる。

 

 「Trails of Tears(涙の道)」は、支配・抑圧者側の言葉(英語)として、“歴史”へと客体化されたécriture(エクリチュール/書かれたコトバ)であり、涙するチェロキー族たちの姿や気配が消されている。

 一方、その楽曲解説でジャック・クルシルも引用したチェロキー族の言葉である「Nunna Daul Sunyi」=「The trail where we wept(我々が泣いた道)」は、被支配・抵抗者側の言葉として、“叙事”のままに主体化されたparole(パロール/言)であり・・「15,000名のチェロキー族のうちおよそ4,000名がその途上で亡くなった」・・と伝えられ・・「tears without waters, dry-eyed and in silence(ただ押し黙り乾いた涙しか流れない)」・・ほどの苛酷な迫害について、植民地下での“支配・抑圧者”の欲望と暴力、そして、その植民地下でのチェロキー族たち北米大陸先住民族(インディアン)の“被支配・抵抗者”としての悲嘆と苦悩が強く伝わり、「the African response to the exodus of the Indians」として「the African slave-trade(アフリカ人奴隷貿易)」にも強く感受するジャック・クルシルの心魂、そして何よりも、このCDの音楽表現の内実にまっすぐに繋がる。

 

 「Trails of Tears/Nunna Daul Sunyi」が主題となる『TRAILS OF TEARS』での演奏内容は、確かに苦悩と悲嘆に満ちている。ジャック・クルシルの心魂は、胸の奥底から喉元へ、そして、トランペットのマウスピースから外部へと、絶えることのなく震える音の谺として静かに囁き呻く。しかし、その音律は、ただ単に哀切な叙情ではないし、先の『CLAMEURS』におけるジャック・クルシルの言葉・・「this clamour is neither a lament nor hatred」・・とも呼応するごとく、同情・憐憫・憎悪に繋がる類いではない。

 

 

 『CLAMEURS』と『TRAILS OF TEARS』で。。静かに深く震響するジャック・クルシルの音律と声は・・「tears without waters, dry-eyed and in silence」・・として、“支配者”が語る大文字としての〈歴史〉を超えて、“抵抗者”が〈沈黙〉の内に生きる時空を抱えている。このようにして、『CLAMEURS』と『TRAILS OF TEARS』の演奏を聴いて私が感受する思想的イメージとは、おそらく、その〈沈黙〉の声がorality(オラリティ/口承)として蘇り、霊視あるいは霊聴のごとく私の内に結ばれる像なのだ。

 

 そして、その〈沈黙〉の声には、すすり泣く共に微笑むかのような、哀切を超えた“抵抗”の響きと“慈悲”の香りとが纏り付く。『TRAILS OF TEARS』のジャケットにエドゥアール・グリッサンが寄せている言葉・・「Coursil moves times aside from us. I mean to say, we learn with him to measure that time which comes to us from distant silence, 」「This time which moves aside so slowly is the time of our awakening.」 ・・とともに、私は〈抵抗と慈悲〉への目覚め(the time of our awakening)という思想的イメージを重ね合わせる。

 

 さらに、私の中でこの〈抵抗と慈悲〉への目覚めは、パトリック・シャモワゾー(Patrick Chamoiseau/1953−、マルティニーク出身 )らが唱える・・植民地化された地域における「諸々の文化要素の相互交感的な、相互浸透的な集合体」「一つの万華鏡的な全体性、すなわち、保持された多様性に対する非全体主義的な意識」「誤った普遍性、単一言語主義、純粋さを打破するもの」(パトリック・シャモワゾー他『クレオール礼賛(ÉLOGE DE LA CRÉOLITÉ)/1997、平凡社刊』所収〈クレオール性〉より)・・としてのcréolité(クレオール性)の覚醒へと、そして、そのcréolitéの「全−世界」的な覚醒としてのcreolization(クレオール化)へと通底していく。

 

《付記》créolitécréolitéに関して、エドゥアール・グリッサンなどは別の概念として論じているが、ここで「クレオール」に関する学究的考察をしたい訳ではないので深入りしない。

 

 

 私は。。ジャック・クルシルの演奏に接し、現代における音楽表現のあり方=[抵抗と慈悲としての音律]とともに、現代世界を経済・社会・文化の全面おいて破壊的・破滅的に席巻するグローバル化(mondialisationglobalization)のオルタナティブなカウンターカルチャーとして、クレオール化(creolization)やクレオール性(créolité)というものが内包するポストコロニアリズム(post-colonialisme)の「全−世界」的なあり方=[抵抗と慈悲としての関係]を想う。

 

 グローバル化された現代とは・・「今日、どれだけの追いつめられた共同体が、本質的な分裂、自己同一性のアナーキー、国家と教条の戦争か、もしくは、武力による帝国的平和、あるいは、あらゆる事象に全体主義的かつ保護主義的な強大な〈帝国〉を措定するポッカリ口をあけた中立性かの二者択一をせまられていることか」「アイデンティティーを唯一の根に求める考え方が、こうした共同体を他の共同体に隷属せしめ、また、彼らの解放の闘いを根拠づけている」(『全−世界論(TRAITÉ DU TOUT-MONDE)/2000年、みすず書房刊』所収〈世界の叫び〉より)・・として、エドゥアール・グリッサンが記す世界であり、その「根としてのアイデンティティー」とは、こうしたグローバル化の地球的且つ人類的な危機の投影であり・・「ナショナリストの欲求不満の回帰と〈強者〉の不毛な世界平和」(同上書より)・・の根拠ともなる。

 

 こうした危機的且つ瀕死的な「根としてのアイデンティティー」のオルタナティブとして、エドゥアール・グリッサンの言う・・「唯一根のアイデンティティーの想像界の上に、このリゾーム-アイデンティティーの想像界」(同上書より)・・を置くこと。このことが、クレオール化・クレオール性が内包するポストコロニアリズムの「全−世界」的なあり方=〈抵抗と慈悲〉なのだ。

 その「リゾーム-アイデンティティ」は・・「世界の創造にではなく、諸文化の接触の、意識的で矛盾にみちた、生きられた経験に結びついている」「系譜の隠された暴力のうちにではなく、〈関係〉のカオス的網状組織のうちに生まれる」「土地を領土(そこから人が他の領土へと投射してゆくところ)としてではなく、すなわち[共取=理解=包括]する代わりに[共与]する場所として、思い描く」・・として、エドゥアール・グリッサンが別の著作(『関係の詩学(POÉTIQUE DE LA RELATION)/2000年、インスクリプト刊』所収〈決定的な隔たり〉より)で述べている「関係としてのアイデンティティー」として理解できる。

 

《付記》エドゥアール・グリッサンが用いる「tout-monde(全-世界)」〜通常は「tout le monde(全世界)」〜という定冠詞抜きのmondeについても、単一化・固定化される普遍的な“世界性・全体性”ではなく、錯綜・生成する「〈関係〉のカオス的網状組織」というリゾーム的な“世界性・全体性”として理解する。

 

 以上がジャック・クルシルの最近の演奏に触発された「音楽的イメージ」と「思想的イメージ」なのだが、この私のイメージは、日本という国家総体により、列島(群島)的文化の担い手としてのアイヌや沖縄・琉球が今なお抑圧され続けている問題にも重なる。

 まさに〜“抵抗者”が〈沈黙〉の内に生きる時空を抱えている〜こととして、また、擬似大陸的な中央集権国家の相貌をますます露にする昨今の日本国において〜グローバリズムのオルタナティブなカウンターカルチャーとしてのアイヌや沖縄・琉球の列島(群島)的文化のポストコロニアリズムのあり方=〈抵抗と慈悲〉〜として繋がるのだ。

 

 この〜アイヌや沖縄・琉球の列島(群島)的文化のポストコロニアリズムのあり方=〈抵抗と慈悲〉〜については、また別の機会に語りたいと思う。

 

 

『creolizationからヤポネシア再考へ』

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