ヴァレリー・アファナシエフ〜叡智から叙情へ

07.02.2015

 ここ最近、毎年のように来日コンサートを行っているヴァレリー・アファナシエフ(Valery Afanassiev、1947- 、旧ソ連出身)に関心を寄せる日本のファンは多いが、私もここ数年来、毎年1回は彼の来日コンサートを聴いている。前日の「とめよう!戦争法 集まろう!国会へ 6.24国会包囲行動」参加の疲れが残る中(話は逸れるが、民主主義と平和憲法を無視する傲慢な安倍政権と暴走する与党(自民・公明)の動きは、本当にみんなの力で止めよう!!)、6月25日にトッパンホールでのJ.S.バッハの平均率クラヴィーア曲集とヴァレンティン・シルヴェストロフ(Valentin Silvestrov、1937- 、旧ソ連出身)のピアノ曲集を演奏曲目とするコンサートに行った。

 このコンサートの演奏曲目は、18世紀バロック音楽における記念碑的な作品と言えるJ.S.バッハの平均率クラヴィーア曲集と20世紀現代音楽のやや異端の位置にあってノスタルジックな趣きのあるシルヴェストロフのピアノ曲集により構成。第1部ではバッハの平均率クラヴィーア第1巻から3曲を弾いた後、シルヴェストロフのオーラル・ミュージックを演奏、第2部では初めにシルヴェストロフのサンクトゥス/ベネディクトゥスを弾いた後、バッハの平均率クラヴィーア第2巻から6曲を演奏(アンコール曲はショパンのマズルカ)。

 ステージに出ると観客に目を向けるでもなく軽く会釈、ピアノの前に座ると間をおくこともなく弾き始めるという、一見無愛想なアファナシエフの演奏スタイルは今回も健在。しかし、その後に展開された演奏内容からは、かつての彼の演奏曲への接し方・迫り方とは異なる音の響きが聴こえた。とりわけ、第2部後半の平均率クラヴィーア第2巻からの演奏は、かつて1995年に録音された同一曲とはかなり異なる演奏内容で、韻律に富む古典的な詩を歌うようして響く開放的な音律に驚くとともに、他のピアニストによる演奏とも異質な叙情溢れる平均率クラヴィーア曲集の弾きっぷりに不思議な感慨を味わった。

 昨年に紀尾井ホールで聴いたベートーヴェンのピアノソナタNo.30・31・32を思い起こしつつ、その時のライブ録音(若林工房から『東京ライブ2014』として発売)を聴いてみると、アファナシエフのそうした変化の予兆は既にあったようだ。この時のベートーヴェンのピアノソナタNo.30・31・32の演奏も、2003年のサントリーホールでの録音(若林工房から『BEETHOVEN The Last 3 Sonatas』として発売)と聴き比べると、やはりかなり異なる演奏内容であることに気づく。

 昨年の演奏では、あのベートーヴェンの後期ピアノソナタが、その内省的な深みを見せるよりも、作曲者の意図や楽譜が示す音律の限界を超えてしまうギリギリの所で、自由奔放に官能的とも言える程の艶かしい叙情性が立ち現れているのだ。このベートーヴェンの後期ピアノソナタといい、今回のJ.S.バッハの平均率クラヴィーア曲集といい、“通常”で“正統”な解釈や演奏でないことは、クラッシック・ピアノの門外漢の私にも分かる。しかし、固有の個的存在たる演奏者・表現者として、アファナシエフが探求する音律に深く魅せられてしまう。

 そして、今回コンサートにおいて、20世紀現代音楽のシルヴェストロフのピアノ曲集を挟む込むようにして、J.S.バッハの平均率クラヴィーア曲集を演奏するというプログラム構成は、私には、日本の聴衆向けということを超えたアファナシエフの音楽的深慮を感じる。

 古典的で宇宙的な叡智(ソフィア)の音律として構築されている平均率クラヴィーア曲集について、懐古趣味の骨董的な音楽に終わらせることなく、シルヴェストロフのピアノ曲集が持つ現代的な叙情に接近させること。一方、現代的で一種ノスタルジックな叙情性を持つシルヴェストロフのピアノ曲集について、個人趣味の感傷的な音楽に終わらせることなく、平均率クラヴィーア曲集が持つ古典的な叡智に接近させること。その上で、両者が時空を超えて、アファナシエフの心魂と霊性の内で、音楽的な親和性を有することを表現しようとしたのではないだろうか・・・・と、私は深読みする。 

 アファナシエフは、今、ピアニストとして、表現者として、ひとつの分水嶺に立っているようだ。作曲者の意図や楽譜が示す音律について、自らの内で内省し再構築していくようなこれまでの叡智的な演奏から、作曲者と自らの心魂を音律の内に自由奔放に解き放ち、存在の祝祭を歌う叙情的な演奏へと。そして、この分水嶺は、アファナシエフの演奏を聴き続けている私自身の感受性の変容を示すことなのかもしれない。

 この分水嶺は、「叡智」がイデアへの憧憬であるとすれば、アファナシエフとって来るべき分水嶺であり、私にとって新たな表現の可能性である。これからのアファナシエフの演奏が楽しみである。しかし一方、この「叙情」への分水嶺は、多くの優れた表現者が陥った主観的なセンチメンタリズムへと到る危うい道かもしれない。今回コンサートにおいて、ある瞬間、「叡智」としての音楽的コントロールを離れてしまい、音律としての凝縮力が拡散してしまうような音の響きが聴こえた気がするのは、私自身が集中力を失いかけたせいだろうか・・・・。

 

 

『Afanassiev - そのピアニズムの揺らめき』

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